パラダイム形成と最終成果の刊行を目指して~最終成果公表に向けて~ 杉原薫

 

 本プログラムは、東南アジア研究所を主幹部局として2007年7月にスタートした。グローバルで長期的な視野から、アジア・アフリカ地域の持続的発展に関する本格的な文理融合型研究に取り組むために、地域研究を志向する5つの部局と、農学、生態学、医学、工学などのサイエンスを志向する4つの部局が共同して、環境と持続性についての根本的な価値の転換を求める、新しいパラダイムの形成のための共同研究を行ってきた。昨年度の中間評価で「とくに優れた拠点」との評価を受けたことによって、当初の情熱にいささかの自信が加わり、勢いを維持したまま、現在5年間のプロジェクトの4年目に入ったところである。高い評価を受けたことによって、残りの2年間、あまり財政的な心配をすることなく研究を推進することができるはずである。 


  われわれは一貫してパラダイム形成と大学院・ポスドク教育を両輪とする体制を維持してきた。大学院アジア・アフリカ地域研究研究科には、このプログラムをきっかけに「グローバル地域研究専攻」が誕生し、「持続型生存基盤論講座」を中心に数名の大学院生がこのプログラムの影響の下で研究を行っているし、その他にも多くの院生がこのプログラムの支援を受けて地域研究に携わっている。他方、教育と研究をつなぎつつ、パラダイム形成の中核となってきたのは、つねにポスドクレベルのグローバルCOE助教、研究員であった。研究室を共有しつつ、ある大きな共通の目標に向かって若い知が融合し始め、事業推進担当者として名前を連ねたスタッフを動かすとともに、拠点リーダーの私の頭のなかに多様な論点が蓄積されていった。そして、合宿や研究会をつうじて共通の思考が練られた。その最初の成果は、この3月に刊行された『地球圏・生命圏・人間圏』に収められている。 

  このまま作業を続けていけば、われわれの研究の最終成果を世に問うにははるかに大きなスペースが必要になるだろう。現在、日本語の論集「持続型生存基盤論講座」(全6巻)と英文の論集2巻の刊行が構想され、準備が進んでいる。もちろん、『地球圏・生命圏・人間圏』の序章に記した三つのパラダイム転換、すなわち「地表から生存圏へ」、「生産から生存へ」、「温帯から熱帯へ」に込められた方向は変わらない。しかし、新しいパラダイムの基本概念としての「生存圏」、「生存」、「熱帯」の定義と内容は、まだまだこれから豊かにしていかねばならない。


  ここでは現在作成中の「生存基盤指数」をめぐる討論を、序章に掲げた図などを参照しながら紹介しよう。まず、図1「生存圏の歴史的射程」には三つの圏の並存と相互作用が示されている。これまでの「人間開発指数」では、人間圏に直接かかわる一人当たり所得、教育、健康などが指数化されてきたが、生存基盤の全体を指数化しようとするわれわれの立場からは、人間開発指数は生存圏全体からいえば人間圏だけ、すなわち生存圏の3分の1をカバーするにすぎない。災害への対応力や生物多様性の保全度を考慮した「生存基盤指数」は、アジア・アフリカの地域社会に生きる人々の生活実感にはるかに近いかたちで、かれらの社会の「基盤」と「目標」を示すであろう。


  図2は、生存圏に関する既存の視点の対象領域と特徴を示したものである。われわれの立場は、緊急事態になれば結局は人間の生存基盤を優先しなければならないことを認める点ではヒューマニズムと共通点を持っているけれども、地球圏の持続と生命圏の保全にコミットしている点では、近代思想の一部(欲望の解放、資源の無制限の収取)に明確な限定を付す。すなわち、地球圏の表面にあって生態系を支える水、空気、土壌などの持続性を、人間圏の存続にとって必要不可欠のものと考え、物質・エネルギー循環そのものを生存基盤として認知するだけでなく、人間と他の生命との関係についても、普通に想定されているよりもはるかに親密な、一方抜きでは他方はありえないような本質的なものとして再構築しようとしている。


  図3は、熱帯雨林気候から砂漠気候にいたる、熱帯・亜熱帯地域における多様性の幅を強調している。幅の広さが、温帯で生まれた技術や制度がそのままでは適用できない大きな理由の一つであり、地球環境全体の保全を考えるなら、もっとも多様な幅を持つ熱帯(さらにこの論理を拡張すれば寒帯も含めたすべての地球環境)を想定した技術や制度に組みかえなければならないというのがその発想であった。それは、すでに「生存」という概念にわれわれが込める内容を豊かにしてくれつつある。環境を統御したり、環境に適応したりするだけでなく、環境と交わり、みずからも環境となることもまた、生存の本質ではないだろうか。そこから、エイズ患者の地平から生存を捉えたり、愛情、尊重、尊厳といった価値を多様な社会に普遍的なものと考える発想が芽生えている。引き続き熱帯生存圏に密着し、その持続に必要な価値を概念化していきたい。


  図4は、まだ形成途上のもので、メンバーのあいだで何種類もの図が作られているところである。これは私がもっとも初期に書いた図であるが、いま述べた愛情、尊重といった価値は親密圏に属し、自由、平等といった公共圏の価値よりも「主観的」なものだと考えられることが多い。しかし、人間は生まれた瞬間、死ぬ直前にはしばしば親密圏にいて、愛情や尊厳がもっとも重要な価値となる。社会に出て、公共圏で活躍している年齢のあいだも、親密圏の価値が重要でなくなるわけではない。教育年限が長くなり、高齢化が進むにつれて、今後人類が親密圏で過ごす時間は増えることはあっても減ることはないであろう。しかも、子育てや教育、介護や医療のように、親密圏と公共圏の協働が必要な分野の重要性は拡大しており、親密圏のしっかりしていない社会は生産現場を支える人材を確保できなくなりつつある。生産ではなく生存をベースにした親密圏と公共圏の連携が人間圏の質を決めつつあると言えよう。

  こうして、われわれの考えるパラダイム転換は、日本社会の現実にもはねかえってくる。それもまた、われわれを奮い立たせる大きな要素の一つなのである。
 



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