日 時:2008年5月9日(金) 14:30~16:20
場 所:総合研究2号館(旧工学部4号館)4階東側・大会議室
話題提供者: 田辺明生
題目:「イノチの人類学へ向けて」
【趣旨】
人の生(イノチ)を身体と環境の相互作用の全体としてとらえること、その相互作用のありかたに介在する現代的な技術と制度に注目すること、そこにおいて人がより豊かな生を探求するための新たな可能性と問題がいかに現れているかを考察すること、こうした問題にアプローチするために人類学の理論的枠組みを再検討すること。こうした目的のために、「生(イノチ)の人類学」を構想したいと考えています。
現代世界において人々がより豊かな生を想像し追求することを可能にするために、イノチを、個人が所有するものとしてではなく、日常的な再帰的実践を通じて、人が環境との相互作用の中で自己と世界を構築していく営みとしてとらえ、こうした生命観にもとづいた新たな人間像・社会像を将来的には提出できないものかと、個人的には妄想しています。
現代の技術制度の発展の中で、身体と環境の可塑性・統御可能性とその限界をめぐる実践倫理的問題は、イノチとは何かという問いをますます重要なものにしているように思います。「イノチの人類学」の可能性を話題にしながら、こうした同時代的にアクチュアルな問題を皆様と一緒に議論し考えていくための場となればと願っています。
【活動の記録】
発表では人における、生物としての「ヒト」と文化的な「人間」との再統合を目指し、特にその相互作用のありかたに介在する現代的な技術と制度に注目していく「生(イノチ)の人類学」のありかたと、その可能性が紹介された。
これまで身体にかかわる人類学では、主にバイオポリティックスの視点から議論されてきた。人の身体は近代的な技術や制度を無意識のうちに内面化していく。そのような状況にたいして、田辺繁治は「統治する権力に直面しながら、自らの自由を行使する余地を拡大していく社会的実践」に解決の可能性を探る。しかし、これは近代社会の責任ある個人、主体という枠組みに依拠したものであり、主体もまた統治性のなかで構築されるものである以上、自由の基盤がどこにあるのかが不明であるという。
フーコーのいう「生の技法」を、生きる主体と統治性や権力のネットワークのなかでとらえていくのでなく、むしろ、人が生態社会環境のなかで生きるなかでその相互作用のなかから、自己と世界を構築していく実践倫理的な営みとして、つまりバイオモラルの視点から捉えなおしていく。発表では自身の調査するインド村落社会の変容を事例に、この新たな視点の必要性が示唆された。
質疑応答においては、バイオモラルという言葉のもつ多義的なイメージから、まずこの概念を精緻化していく作業がおこなわれた。まず、バイオポリティックスとバイオモラルとの関係についての質問・意見が多数発せられた。国家や制度の身体への介入と、日常的な実践のなかでのバイオモラル的なものとの関係をどう捉えていったらいいのか、バイオモラルとして理解すること自体に価値認識が存在するのではないかといった点など、異論も含めて様々な議論が交わされた。さらに、バイオモラルという概念がバイオポリティックスの対となる概念となり得るのか、あるいはフーコーのバイオポリティックスに収束するのなのではないのかといった意見も投げかけられた。これらの質問に対して、バイオモラルをバイオポリティックスへのアンチテーゼとしてのみとらえるのではなく、また対立軸として想定しているわけではないこと、むしろフーコーの議論に近い側面もあることを理解した上で、これまでの権力が主体をつくっていくという理解を超える試みとして、この新たな概念から可能性を生み出していきたいとの返答があった。
(文責 加瀬澤雅人)
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