日 時:2008年7月4日(金) 13:30~15:30
場 所:人文科学研究所本館(新館) 1階セミナー室1(101号室)
http://www.zinbun.kyoto-u.ac.jp/kotu.html
話題提供者:速水洋子
タイトル:「生のつながりへの想像力―三つのカレン社会の事例に見る再生産の文化」
ディスカッサント:藤倉康子 (New School for Social Research)
要 旨:
人類学では長らく、社会の安定的存続の理解の根幹に親族という研究領域を据えてきたが、これは過去四半世紀来もはや成り立たなくなっていた。それは、一つには親族の理解の根幹にあったつながりの理解そのものが、近代産業社会を支配する生―権力に裏打ちされた知のレジームに立脚していたことが明らかにされたことによる。そして親族研究で前提とされた人間の生のつながりにおける生物と社会、自然と文化の二分の再考がせまられた。加えて新生殖技術の開発は、自然・技術・科学の関係における知の諸前提そのものの再構成を求めてきた。しかし一方で生殖技術が開いた様々な新しい可能性はその多様化のかげで、私たちの生のつながりへの想像力をむしろ限定してきたともいえる。私たちの研究対象としてきた社会における生活実践の中で、生のつながりは、自然と文化の二分をこえ、より豊かな広がりをもった想像を可能にする。これまで行ってきたタイとミャンマーにおける三地点のカレン社会の調査から、生のつながり、継承を確保し紡ぎだす方途が様々に変転しながら準備されてきたことを示す。歴史的体験、支配社会との関係、生業形態、宗教が異なる三地点で、形は其々ながら、同じようにつながりが確保される。こうした民族誌的事例を単なる彼方の他社会の寓話とするのではなく、グローバル化する世界にあって生のつながりをあらためて確保する想像の基盤とすることができないだろうか。
【活動の記録】
発表では、はじめに、これまでの人類学において、親族および「再生産」に関わる問題がドメスティックな領域に封じ込められてきたことを批判的に検討し、さらに近年の新生殖技術に関する研究も踏まえて、「つながり」という問題を再考する必要性が主張された。そしてカレン族の3地域での事例を紹介しながら、動態的でかつ生物学的な身体をも包摂したものとして親族論を組み直し、人類学以外の人文科学や自然科学との交流や議論が可能な新たな親族論が提示された。
質疑応答において、ディスカッサントの藤倉康子氏(New School for Social Research)は、今日のアメリカでは人類学における親族論研究・教育が、バイオポリティックスの一形態として理解されている現状を紹介し、速水氏の主張する親族論とRabinowの言うBio-socialityの議論との類似性や関連性を検討することを提案した。このコメントをうけて、フロアからは親族論における普遍性と固有性、社会性と生物性(自然)について、様々な意見が挙がった。さらに氏の提示する親族論の捉え方にたいして、社会変化・制度的な変化の影響についても考察していくべきではないか、また、親族論の脱構築を図るのなら、従来の親族論の語彙にとらわれるべきではないのではないか、などの意見もでた。
事例で示されたカレンの各々の社会では、いっけん些細に見える実践を通じてそれぞれの親族における独自性や差別化が図られていることが見受けられ、それが代々継承されている。一方で、この次世代への継承は生物的な再生産としても存在し、それは人類に普遍的な共通性を持つものとしても捉えることも可能であり、そこにローカルとグローバルの関係という、GCOE全体につながる問題の糸口を見出すことができるかもしれない。さらに再生産の場には、次世代へ何を継承し何を捨象していくのかという、イニシアティブ4が議題として掲げる「価値」の問題も含まれている。どのような実践や知がより良き生のために重要であり、なにを次世代のために選択しているのか、親族研究は生存における価値を探る上でとても重要な鍵となるのである。そのため、自然科学系の研究者からは、親族研究から人類共通の意思決定というようなものが想定できるのではないか、そしてそれが可能ならば、そこに人類学がどのような関与や見解を示していくことができるのかという質問が挙がった。一方人類学者の側からは、自然/社会を個別・対立的にみていくのではなく、その両者の繋がりを明らかにしていくことからはじめるべきであると説明された。さらに、この問題を通じて、人類に共通に普遍化できる知の在り方を示すことも可能となるのではないかという見解も示された。
(文責 加瀬澤雅人)
サイト管理者はコメントに関する責任を負いません。