私の研究の関心は、農村開発の現場において地域住民、援助ドナー、現地行政官、NGOなどのさまざまなアクターがやりとりを繰り広げるなか、どのように地域住民の内発的な動きがあらわれるのかをミクロな場面で明らかにすると同時に、そうした動きがマクロな開発援助の潮流や社会経済的な動向とどのように連動しているのかを分析することにある。最近の調査をとおして、特に開発援助の方針にみられる変化が、地方行政にもたらす影響について知ることの重要性を再認識するようになっている。
私が調査地としているのはタンザニア南部、ニヤサ湖に接するムビンガ県である。同県は近年ではキリマンジャロをしのぐほどの国内有数のコーヒー生産地で、住民の多くがコーヒー生産からの収入に強く依存している。私がタンザニアにはじめて行った2001年は、構造調整計画による経済自由化の影響が、コーヒーの流通経済においても顕著になっていた頃で、世界市場の動向をはじめとする諸要因によって買い付け価格が急落し、地域経済はどん底の状態にあった。開発の現場での諸アクターの相互作用もさることながら、そうした急激な変化に戸惑う栽培農家の状況が、農村開発への対応にも強くあらわれているということをみてきた。
一方でその頃は、国連の関係諸機関によって新開発戦略やミレニアム・ディベロップメント・ゴールが掲げられ、開発途上国における第一の開発政策として貧困削減戦略が推進されはじめた時期でもあった。タンザニアも例外ではなく、2000年に貧困削減戦略書を作成し、こうした流れに同調していった。タンザニアの貧困削減戦略は、貧困層が多数存在すると想定されている地方に行政サービスが行き届くよう、特に地方分権化とともに進められている。もともとタンザニアでは1980年代から地方分権化が進められていたのだが、貧困削減戦略の導入を機に、その動きはより強力になっていったのである。
私が初めてタンザニアに行った時は、目的は調査研究ではなく青年海外協力隊員としてムビンガ県の農業畜産振興局に所属し、農業改良普及の業務に従事するためであった。しかし、当時、貧困削減戦略の導入はフィールドにいてもそれほど実感できるほどの影響力をもっていなかったようにおぼえている。さしあたっては政府がIFAD(国際農業開発基金)などの援助ドナーとともにマイクロファイナンスを推進する動きがちらほらと目につくようになっていたぐらいであった。
率直にいって、当時のオフィスは非常に暇な環境にあった。よくいえばのどかで、皆、時間をかけてチャイ(お茶)を飲みにいっていた。ある同僚が自嘲気味に「みんな暇だ。仕事がない」と私に言っていたこともある。オフィスの設備環境もそれほど整ってなく、目につくのは机のうえに積み上げられた紙媒体の報告書ぐらいであった。普及員のすべてがバイクをもてるわけではなく、また持っていてもガソリン代がいつも支給されるとは限らないために、あまり村に巡回指導に行くことができていなかった。たとえ村に行っても、普及員ができることは非常に限定されていた。外国の援助ドナーによるなんらかのプロジェクトが県内で実施されていれば、その予算で業務に従事することもできていたが、そうしたプロジェクトが常にあるとは限らない。そのような場合、例えば村を巡回していて、作物の生育が順調ではなく、その原因が化学肥料を施与していないことにあると診断ができても、農民には化学肥料は高価で買えない、代替となる堆肥をつくるにも家畜がいない、という陳情を聞かされるだけで終わりである。私もこうした普及員の悩みを分かちつつ、2003年に協力隊の期間を終えていったん帰国した。
その後、毎年同地でフィールド調査をする機会を得ているのだが、特にここ数年で貧困削減戦略と地方分権化の影響を感じるようになっている。まず、マイクロファイナンスを推進する動きがより強くなっていることがあった。次に世界銀行によるタンザニア社会活動基金 (Tanzania Social Action Fund) が国家規模で大々的に事業を展開していったことがあげられる。国内すべての村や住民組織を対象にして、学校や学生寮、診療所、水道などをつくるための資本を提供することを目的としたプログラムであった。住民参加を意識し、コストシェアリングが基本で、村が何を希望するかは全村会議の手続きがとられていたが、まず実施できる事業の選択肢自体が少なく、また、村事務長などのオフィサーが手続き自体を良く理解していなかったことから、その内容は住民参加とは言い難いものとなっていた。こうした状況は下手をすれば結果的に「バラマキ」に近く、援助の手法は逆戻りしているという疑いを抱かせかねないものであった。それでもこのようなプログラムが発生することによって、その場に農業関係の普及員もアドバイザーとして配置されていたので、彼らは活躍する機会を得ていたのである。
また、農業セクターに注目すれば、Agricultural Sector Development Programmeという貧困削減戦略と連動した国家スキームが2006年に完成し、そのなかで各県は独自のイニシアティブでDistrict Agricultural Development Plans (DADPs)を作成することが求められ、それにもとづいた普及事業を実施するようになっている。地方分権化の影響もあって、県の行政官はこれまでに見たこともない単位の予算をあつかうようになり、その影響は町への大量のモノの流入や、これまでになかった舗装道路の造成作業にあらわれていた。DADPsでも、ボトムアップの考えが重視され、村単位や住民グループによって起案される発展計画を募り、サポートしている。そのため普及員は、住民の陳情を黙って聞くのではなく、こうしたサポートを紹介し、具体的な手続きを説明する、という明確な役割を担わされているのである。
2008年にオフィスをおとずれると、大きな変化があった。電気すら満足になかったオフィスには、最新のノートパソコンが並び、LANも設置されることが聞かされた。私が貧困削減戦略と地方分権化の影響をもっとも強く感じた瞬間であった。そしてオフィスには人がまばらになっていた。かつての同僚は少し得意気に「最近は忙しい。みんな村に行っている」と言い、私はインタビューをお願いした普及員に会うために何度も出直すことになっていた。かつてのオフィスの様子を知っていたので、忙しそうな様子をみるのはこちらとしては悪い気もしなかったし、それは農民の立場にたってみても歓迎すべき状況だろう。しかし、ようやく目当ての普及員に会うことができて、DADPsについて詳しい情報を得た帰り際、彼は私にこう言っていた。「とりあえずこのプログラムは来年まで。それが終わればどうなるかわからない。これで終わりか、あるいはまた新しいプロジェクトでもくるかは知りようもない」。結局のところ、こうしたオフィスの状況の変化も援助ドナーの計画に左右されているものだ。そうした現状を教えてくれたのはまさに普及員当人たちの言であった。今後もドナーが継続的に同程度の援助を実施するかは誰もわからない。これで芳しい成果がみられなければまた「援助疲れ」と言い出すに違いない。農民もそうした動きにもちろん影響されるのだが、それよりも援助システムの末端に位置するエージェントとしての普及員もふりまわされることになる。私は農村開発の現場を理解するには地域住民を出発点として考えるようにしているが、こうした普及員の憂鬱を共有することも、今後、マクロ・ミクロレベル双方の視点から農村開発を考えていくうえで重要であると思っている。
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