発表者: 小田 亮(成城大学文芸学部教授)
タイトル: 社会の二層性あるいは二重社会論という視点――小さなものの敗北の場所から――
【要旨】
人類学は、その調査研究の方法上、田舎であろうと都市であろうと、ローカルな生活の場を調査対象とせざるをえない。すなわち、レヴィ=ストロースのいう「真正な社会」である。しかし、近代に形成された資本主義と国民国家のシステムは、そのような「小さなもの」を劣位におき、敗北へと追いやってきた(市村弘正)。グローバル化と政治・経済のネオリベラリズムは、ますます小さなものや小さなものを支えてきた相互関係を断ち切ってきている。けれども、人類学が自分の身体を調査の手立てとするというその調査研究の方法を変えないかぎり、人類学者は、身体の届く範囲という、ローカルな場所を調査対象にして、そこで小さなものの小さな声を聞くことを続けなくてはならないだろう。
では、人類学者に課せられたことは、一方的な負けいくさによって滅びる小さなものの声を聞くことなのだろうか。あるいは、ローカルな場所を研究対象とすることをやめて、グローバル化や新資本主義というシステムへの対抗の場を、グローバルな場所、マルチチュードの移動の場に求めて、調査対象と方法を変えるべきなのだろうか。おそらく、その両方とも、人類学にとって自殺行為となってしまう。
レヴィ=ストロースは、50年以上前に、将来おそらく人類学から社会科学へのもっとも重要な貢献は、「真正性の水準」という社会の二つの様相の区別とされるだろうと述べている。その区別とは、人びととの生きた直接的な接触による小規模な「真正(オーセンティック)な社会」の様式と、より近代になって出現した、印刷物や放送メディアによる大規模な、「非真正な(まがいものの)社会」の様式との根本的な区別である。そして、この真正性の水準による社会の様相の区別の最も重要な帰結は、ひとは資本主義や国民国家というグローバルなシステムというたったひとつの社会を生きているのではなく、二つの社会あるいは社会の二つの層を二重に生きているということであろう。この視点を、「社会の二 層性」ないしは「二重社会」論と呼ぶことにする。そして、この視点こそ、人類学という学問を、一方的な負けいくさで滅びていく小さなものへの同情や失われたものへの郷愁でもなく、あるいはグローバルなものにもうひとつ別のグローバルなものの探求によって対抗するのでもなく、小さなもののもとに学びに行くという人類学の途を示してくれることを明らかにしたいと思う。
【備考】
*事前の参加予約は必要ありません。
*当日は、資料代として200円をいただきます。
*京都人類学研究会は、京都を中心とする関西の人類学および関連分野に関心をもつ大学院生・研究者がその研究成果を報告する場です。どなたでも自由に参加いただけます。
【お問い合わせ先】
丸山淳子(4月季節例会担当)
清水展(京都人類学研究会代表)
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