【テーマ】歓待の人類学
【コメンテータ】青木恵理子(龍谷大学)
※各発表30分程度を予定。
各報告の要旨などは追ってお知らせいたします。
【趣旨】
「民族学〔文化人類学〕は未開社会という特殊な対象によって定義される専門職ではなく、いわば、ひとつのものの考え方であり、自分の社会に対して距離をとるならば、私たちもまた自分の社会の民族学者になるのである」というモーリス・メルロ=ポンティの言葉は、半世紀前に書かれたものですが、人類学の可能性を示してい< BR> るとともに、またその限界をも示唆しています。可能性とは、人類学は「未開社会」、異文化社会にこだわる必要はない、ということです。グローバル化の現代、かつて想定されていたような異文化という領域が流動化している状況で、メルロの言葉は、遠くに出かける必要はないんだ、と語りかけています。人類学は、対象によってではなく、「距離をとるならば」という態度によって規定される学問だ、ということになります。しかし、メルロの限界は、まさにそこにあるように思われます。「距離をとる」という近代人の態度こそ問いなおすべきだと考えるからです。
考えてみれば、フィールドワークの手引書は主として、どのように他者と距離をとるのかという視点から書かれてきました。ラポールという概念も、距離を前提に問われてきたにすぎません。人類学者は「一歩ひいて」かれらを観察し、かれらの語りに耳を傾けます。どうすればフィールドで他者の機嫌を損なうことなく信頼を獲得し、良質なデータを効率的に収集できるのか。どうすれば、帰国の際にお互いウルルンできるのか。こうした問いかけに答えようとするフィールドワークのマニュアルはたくさん出ています。しかし、「距離をとる」という前提こそが問われなければならないのではないでしょうか。いかに他者に関与するのか、という視点こそ重要ではないでしょうか。今回の例会では、以上の問題を念頭に、さまざまな他者との出会いのあり方を考えていきたいと思います。その際、取り上げたいのは、歓待(ホスピタリティ)という視点です。ここではより具体的に、接待、接客、感情労働、誘惑といった行為に注目して他者との出会いについて再考したいと思います。他者とどうかかわるのか、という問いかけは、共存や共生をめぐる議論に対してだけでなく、フィールドワーク論の再考に貢献することになるでしょう。
【各発表要旨】
◆浅川泰宏(さいたま県立大学)「<つながる>ことの快楽と呪縛: 出会いの回路としての接待を通して」
接待は四国遍路の巡礼者歓待習俗である。伝統的な解釈では、弘法大師の呪力を根源とする功徳を獲得するための施行とされる。だが、「祈り」よりも「歩き」を重視する現代の徒歩巡礼が隆盛するなかで民俗宗教的な論理は後退し、かわって前景化するのが現代社会的なコンテクストだ。見ず知らずの他者からの思いがけない「優しさ」と読み替えられた接待は、都市の日常では希薄になった交流の暖かさに気づかせ、人と人とが<つながる>心地よさを実感させるという新しい魅力を見出された。だが接待は巡礼者にとって常に魅力的なものとも限らない。厚意は厚意として理解しつつも、できればそれを拒否したいという葛藤が生じることもある。押しつけがましさや重苦しさが喚起され、思いが呪縛となることもありうるのだ。本発表では、これまであまり語られてこなかった、接待の二面性を語る事例の紹介を通して、他者との関わり方についての論点を提供したい。
◆國弘暁子(群馬県立女子大学) 「異装を纏う人々への歓待の作法: インド、グジャラート州におけるヒジュラとしてのあり方を中心に」
男性としての生を放棄し、女神の衣装を身に纏い生きるインドのヒジュラ。一般の人々とは異なる外観を呈して、俗世の人々の間で乞食(こつじき)をして回ることを日々の活動とするが、時として、強引な態度や嫌がらせによって無理矢理に金銭を要求しようとする。そのため、ヒジュラは不快な存在として蔑視され、また、嘲笑の対象とされることもある。しかし、女神という聖なる存在が喚起される場所や状況においては、ヒジュラは排除すべき存在ではなく、むしろ、女神に帰依する者として手厚くもてなすべきであると考えられている。本発表では、インド、グジャラート州においてヒジュラと生活を共にした参与観察データをもとに、ヒジュラとして生きる者たちが、いかに俗世の人々と係り合い、どのような待遇を受けるのかについて報告する。
◆徐玉子 (京都大学) 「〈性労働〉、セックスから感情労働へ: 在韓米兵相手のフィリピナー・エンターテイナーの場合」
韓国には現在全国に散在する米軍基地が93箇所に達し、33,000余名の米軍が駐屯している。それらの基地周辺には、米兵のRest&Recreation(休息と休養)にかかわる、主に性的サービスを提供する場所として基地村が形成されている。本発表は、まずその米軍基地村で「エンターテイナー」として働くフィリピン人女性の生活経験・労働現場に密着したフィールドワークをもとに、彼女たちの「移住性労働」を、感情労働をキーワードに再現する。そして、その「移住性労働者」の労働実践(感情労働の遂行)と「一般女性」の日常的な感情管理の類似性に着目し、後者の、支払われることなく、私的領域で女性に課せられる感情管理に費やされる労力を「ジェンダー労働」として概念化・可視化することを試みる。ここまでは一応感情労働を資本主義や家父長制による産物であると理解しながらその抑圧性に注目する一方、私的領域での支払われることのない感情管理への労力をあえて「労働」と名づけることによって、労働であると認められる活動とそうではない活動の間の区別、もしくは序列化に挑戦する。最後に、感情労働が抑圧的な側面を含みながらも人との間の新たな関係を生成しうる可能性を肯定的に捉えることを試みる。
◆松田さおり(宇都宮共和大学) 「〈蝙蝠〉としてのホステス: 女性たちの接客実践の検討」
本報告では、「歓待」の現場における他者との出会いのありようについて、ホステスという日本の女性労働者の事例を取り上げて考察する。ホステスは、主として女性が男性に対し「歓待」「接遇」するサービスを行う、という極めて特化された役割を担い、独特の位置づけがなされるとともに、さまざまな形で社会的な注目を集めてきた。ホステスは、企業による接待交際活動の伸長と密接に関係しながら、その活動規模を拡大させてきたが、同時に「取るに足らない」「いかがわしい」そして「まともでない」労働者としても描かれてきた。「まともでない」とされた理由の一つは、彼女たちがシロウト-プロ、接客労働者-性労働者、男性中心社会の犠牲者-共犯者といったカテゴリーの間の、境界的な存在=蝙蝠的存在として捉えられてきたことに由来する。本報告では、このような蝙蝠的存在としてのホステスの起源と変遷について説明するとともに、いかにして「まともでない」女性たちが、「まともな」男性と出会い、「親密な」関係性を維持・展開・終了させているのかについて、その接客実践から分析を試みる。
◆大浦康介(京都大学)「歓待と誘惑」
私はおもに歓楽街をフィールドしている文学研究者です。今回は、私が数年前に行った伝説のナンパ師、梅田ダンススクールの佐伯孝三氏へのインタビューを中心にお話しします。佐伯氏はそこで、誘惑とは何か、誘惑はどんなタイプのコミュニケーションなのか、人はどうすれば優秀なナンパ師になれるのかといった問題についてじつに興味深い理論を展開しているのですが、私はこの佐伯流誘惑論を紹介するとともに、それがどのように田中雅一氏の「歓待」論とつながるのか(あるいは、つながらないのか)について考えたいと思っています。
【備考】
*事前の参加予約は必要ありません。
*当日は、資料代として200円をいただきます。
*京都人類学研究会は、京都を中心とする関西の人類学および関連分野に関心をもつ大学院生・研究者がその研究成果を報告する場です。どなたでも自由に参加いただけます。
【お問い合わせ先】
inq_kyojinken[at]hotmail.co.jp
飯田玲子 飯塚真弓 伊藤千尋 北沢直宏 武田龍樹 秦 玲子 堀江未央 光保謙治 八塚春名
井家晴子 小池郁子 木村周平 中村 亮 西本 太 松尾瑞穂 宮本万里
京都人類学研究会代表 田中雅一