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[東南アジア学会関西地区3月例会](関連する学会・研究会)

日 時:2010年3月27日(土)13:30~17:30
会 場:京都大学稲盛記念会館3階 中会議室

 

アクセス:
http://www.cseas.kyoto-u.ac.jp/about/access_ja.html

建物位置:
http://www.kyoto-u.ac.jp/ja/access/campus/map6r_b.htm

 

 

報告1 岩澤 孝子(国立民族学博物館)
「文化資源としての「キンカラーの舞」―タイ、メーホンソーン県におけるシャンの芸能実践―」

報告2 冨岡 三智(大阪市立大学文学研究科)
「ジャワ舞踊「ルトノ・パムディヨ」の表現に見られる「インドネシアになる
mengindonesia」ということ」

(尚、4月は4月17日(土)、小田なら、小島敬裕のご発表となります。)

【発表要旨】

発表要旨1 岩澤孝子

タイの音楽舞踊を中心とした芸能は、宮廷の庇護を受けて発展した舞踊劇の伝統に基づく古典芸能とそれ以外の民俗芸能に二分されるのが一般的である。民俗芸能については、タイにおける文化地理上の区分(北部、中央部、東北部、南部)である4つに細分される。北部タイの芸能のなかには、チェンマイを中心として栄えたラーンナー様式の芸能とともに、山地諸民族の芸能やモーン、シャンなど、この地域に居住する諸民族の芸能も多く含まれており、タイ北部の伝統芸能というカテゴリーの内部で、シャンの伝統芸能が占める割合は決して少なくない。

今から20年ほど前、シャンの芸能文化は、シャンの人々の間で興味が失われ、後継者不足のため、衰退の危機にあったと見られている。しかし、外部評価があがったことで、シャンの人々のアイデンティティーの源として再評価されるという新たな動きが現れ始める。タイ国内においてシャンが最も多く居住するメーホンソーン県においては、近年彼らの伝統文化の継承が行政の指導で活発化してきている。その主な舞台は学校である。シャンの芸能実践は、その後継者不足問題を長年抱えてきたが、こうした動きのおかげで、新たな担い手を獲得するとともに、再びシャンの人々自身の興味を取り戻すことができるようになったと考えられる。

本報告は、シャンの芸能実践の現状を把握することを目的とする。なかでも、
「キンカラーの舞」は、近年シャンの内(うち)・外(そと)を問わずに演じられる国レベルの文化資源となっているが、同時に現在メーホンソーン県の文化資源としても大きな地位を占めるようになっている。このキンカラーの舞に焦点を当て、シャンの芸能文化がメーホンソーン県に居住するシャンの人びとの間で、どのように認知され、伝承されているかを明らかにしたい。

発表要旨2 冨岡三智 

1 はじめに
「ルトノ・パムディヨRetna Pamudya」は、「マハーバーラタ」に登場する女戦士スリカンディが、ビスモを倒すエピソードを女性の単独舞踊によって表現したジャワ舞踊である。ジャワ、スラカルタSurakarta宮廷の舞踊家クスモケソウォRT Kusumokesowoが第1回政府派遣芸術使節misi kesenianのジャワ舞踊演目として1954年に振り付けた作品で、宮廷舞踊の動きを使って振り付けられた舞踊作品の嚆矢であり、現在はジャワ舞踊の基礎的な演目として定着している。
クスモケソウォは1950年に設立されたインドネシア初の国立音楽コンセルバトリKonservatori Karawitan Indonesia(現・芸術高校)スラカルタ校の最初の舞踊教師であり、また1961年から観光のために始まったプランバナン寺院の「ラーマーヤナ・バレエRamayana Ballet」の初代振付家でもある。
スラカルタ宮廷は1755年にマタラム王朝の分裂により生まれた。オランダ植民地時代は自治領を有していたが、インドネシア独立後は政治的実権を失った。
本発表では、「ルトノ・パムディヨ」の舞踊表現を分析することによって、独立後のインドネシアにおける新しい女性像や、そのような女性像を生み出した背景を探ることによって、「インドネシアになるmengindonesia」という国のテーマが1950年代のジャワ舞踊でどのように実現したのかを考察する。
 

2 新しい舞踊表現
ジャワ舞踊には宮廷舞踊の系譜と民間舞踊の系譜がある。「ルトノ・パムディヨ」で用いられている宮廷舞踊の動き(laras, golek iwak, engyek, lembehan,sindet…)は、それ以前は民間で全く知られていないものであった。これらがジャワ舞踊の基本的な動きとして民間舞踊にも取り入られるようになるのは、この作品以降のことである。
ジャワ舞踊において宮廷舞踊はすべて群舞であり、振付によってテーマを表現するが、単独舞踊(ソロダンス)は民間舞踊にしか存在せず、半ば即興的な踊りで踊り手の個性や魅力をアピールする。「ルトノ・パムディヨ」は宮廷舞踊の動きを用いた舞踊でありながら単独舞踊であるという点でユニークであり、かつ現在に至るまでそのような作品は作られていない。
男性の単独舞踊は物語のキャラクターを表現する。商業舞踊劇で王の役を務めるスター舞踊家の顔見せに使われる。一方、女性の単独舞踊はロンゲン、タレデッ、レデッと呼ばれる大道芸の女性が性的表現をとるもので、彼女たちはしばしば売春も行う。「ルトノ・パムディヨ」は女性の単独舞踊でありながら物語のキャラクターを表現するという、男性的な性格を持つ舞踊である。
スリカンディとビスモの戦いのエピソードはワヤンwayang(影絵)や民間の商業舞踊劇でしばしば描かれる。スリカンディは女ながらパンダワ軍の司令官である。ビスモはコラワ軍の司令官であるが、高潔な求道者として両陣営から師事されている。「ルトノ・パムディヨ」ではビスモを倒さねばならないスリカンディの内面の葛藤が描かれるが、そのような内面の葛藤は宮廷舞踊、特に宮廷男性舞踊のテーマであった。また、ジャワ版「マハーバーラタ」ではスリカンディは霊および霊的な力を持った矢の助けを借りてビスモを倒すが、「ルトノ・パムディヨ」ではそのような要素は省略され、ている。「ルトノ・パムディヨ」は、スリカンディを男性キャラクターのように社会的地位と権限を持って内面の葛藤をする人間として描いているが、このような舞踊は、インドネシア独立以前には存在しなかった。 宮廷の内外を問わず、女性の踊り手は男性に性的に見られる従属する存在であった。宮廷の踊り手は幼少から後宮に住みこみ、長じては王の側室となったからである。
したがって、「ルトノ・パムディヨ」は、一般の女性にとって、性的に見られることなく人前で踊ることのできる、自立した人間性を表現できる初めての作品であった。

3 舞踊評
1970年代に国立音楽アカデミーAkademi Seni Karawitan Indonesia(現・芸術大学)スラカルタ校学長となるゲンドン・フマルダニが、1959年に「ナショナルNasional」紙に「ルトノ・パムディヨ」についての舞踊評を寄せている。フマルダニは、クスモケソウォを、インドネシアにおけるモダン・ダンスのパイオニアと同等に見なし、同作品は伝統舞踊の振付手法にしたがっているが、伝統舞踊の装飾的な面が省かれ、新しい感覚を表現していると述べている。伝統舞踊には物語を説明したり、踊り手を見せたりするための装飾的な要素が多いが、それらを排してテーマ表現を強調している点が1950年代に大きなインパクトを与えたことが分かる。

4 国立芸術学校の設立と観光政策
このような作品が生まれた理由として、第一に、クスモケソウォが性的な表現のある女性舞踊はインドネシアという国家を代表する舞踊としてふさわしくないと考えていたことがある。現在ではスラカルタを代表する舞踊として有名なガンビョンgambyong(ロンゲンなど大道芸の女性の踊りの系譜)を芸術使節の舞踊の演目に加えなかったのはそのためである。
クスモケソウォがインドネシアを代表するにふさわしいと考えていた舞踊は、ワヤンの物語、つまり「マハーバーラタ」や「ラーマーヤナ」に基づいているものであった。それらは古代のヒンドゥー・ジャワ文化の遺産として貴族から庶民まで幅広い階層の人々の知の源泉になっており、キャラクターを通して哲学的なテーマが表現されているからである。
第二の理由として、クスモケソウォはインドネシア初の国立芸術学校の教師として、舞踊教育のカリキュラムを打ち立てなければならなかったことがある。コンセルバトリはスラカルタ宮廷の王子が設立し、宮廷芸術をもってインドネシア国民を啓蒙教化することを柱にしていた。
音楽に関しては19世紀末に音楽理論が宮廷で完成していたため、コンセルバトリではそれをそのままカリキュラムに導入したが、舞踊に関しては宮廷での体系化が遅れていた。それは宮廷舞踊が王権や後宮制度と結びついていたからである。
宮廷舞踊演目が解禁されるのは1970年になってからである。そのようなジレンマ中、1950年にクスモケソウォはジャワ宮廷舞踊の語彙や語法を学ぶ基礎練習メソッドを作り上げていたが、次いで、基礎練習の次に教えるべき舞踊作品を振り付ける必要性に迫られていた。学校で十代の学生に教える女性舞踊として、従来からあった性的な女性舞踊―民間であれ宮廷であれ―はふさわしくなかった。宮廷舞踊としての格調やテーマを備えながら、しかし宮廷制度とは切り離されていて、一般の女性が踊るのにふさわしい舞踊として「ルトノ・パムディヨ」は作られた。
政府が派遣した第1回芸術使節では、インドネシアの代表的な地域の音楽と舞踊が紹介され、スラカルタからはコンセルバトリの演奏家と踊り手が出演した。さらに「ルトノ・パムディヨ」を初演したジョコ女史が、帰国後にコンセルバトリでクスモケソウォの助手となり、以後定年まで「ルトノ・パムディヨ」を教え続けた。これらのことから、「ルトノ・パムディヨ」は学校教育に組み込むことを視野に入れて作られたことが明らかである。

5 終わりに「ルトノ・パムディヨ」は、_独立_後のインドネシアにおいて、宮廷舞踊をベースとしながらも宮廷制度から_独立_し切り離された舞踊として振り付けられ、男性から_自立_した女性を描いた作品である。このようなインディペンデンスの表現は、フェミニズムの精神から生まれたのではなく、インドネシアという、既存の地域枠組み(ジャワ、バリ、スマトラ…)を超えたアイデンティティを形成しなければならないという状況から生まれた。
そのように言えるのは、クスモケソウォが宮廷舞踊家としては最も保守的な人物として知られ、女性は男性によって庇護されるものだと考えていたからであり、さらに、インドネシアになる、インドネシア化する、という意味の「ムン・インドネシアmengindonesia」という概念は、クスモケソウォのみならず1950年代に活躍した芸術家にとって共通の大きなテーマだったからである。
そして「ムン・インドネシア」を推進したのが学校教育と観光PRであった。つまり、インドネシアでは学校教育において内からのアイデンティティ形成を図りつつ、観光によって外へアイデンティティを主張することによって、その自己イメージを形成してきたのである。

 

 

世話人・連絡先 Contact:
片岡樹 Tatsuki Kataoka kataoka(at)asafas.kyoto-u.ac.jp
蓮田隆志 Takashi Hasuda hsd(at)cseas.kyoto-u.ac.jp
速水洋子 Yoko Hayami yhayami(at)cseas.kyoto-u.ac.jp