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[東南アジア学会関西地区4月例会](関連する学会・研究会)

日 時:2010年4月17日(土)13:30~17:30
会 場:京都大学稲盛記念会館3階 中会議室

 

アクセス:
http://www.cseas.kyoto-u.ac.jp/about/access_ja.html

建物位置:
http://www.kyoto-u.ac.jp/ja/access/campus/map6r_b.htm

 

報告1 小田 なら(京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科)
「ベトナム近現代史における「伝統医学」」

報告2 小島 敬裕(京都大学地域研究統合情報センター)
「中国雲南省における徳宏タイ族の宗教実践と国境の地域社会」

 

【発表要旨 Abstracts】
1 小田なら
本発表では、ベトナムにおいて「伝統医学」が誕生し、公的医療制度の中に取り 入れられてきた社会状況を明らかにすることを目的とする。その上で、仏領期お よび南北分断期に発行された医学雑誌の記事に見られる伝統医学関連の語彙に着 目し、ベトナムの伝統医学の概念がベトナム近現代史においてどのような変容を 遂げてきたのかを論じる。
現在ベトナムでは、ベトナム由来の「南薬」と中国医学由来の「北薬」が「伝統 医学」の医薬として公的医療制度内で利用されている。「南薬」はベトナムの 「北」に位置する中華世界への対抗意識から興った概念といわれているが、仏領 期と抗仏・抗米戦争を経てなお利用され、ベトナムの独自性の象徴として認識さ れている。ベトナムが辿ってきた歴史背景から、「南薬」は常にベトナムのナ ショナリズムと関連づけて語られてきた。ベトナム独立運動を先導したホー・ チ・ミンが「われわれの薬、北薬、東洋医薬を大いに利用しよう」と呼びかけた ことによって伝統医学への権威付けが始まり、北ベトナムの医療政策へ具現化し ていった事実も、そのような語りの背景といえる。
しかし、外敵を想定したナショナリズムや、政治・経済的目的ありきとする「伝 統の創造」論のみをベトナムの伝統医学の成立と発展の理由とするのは不十分で ある。財・物が不足した独立戦争期や、国際社会で孤立し窮乏状態にあったドイ モイ政策開始以前の1980年代に身近な薬草に頼らざるをえず、結果的にその実用 性を裏付けられたからこそ、ベトナムの伝統医学は現在まで残ってきたといえる。
さらにこれまで看過されていたもうひとつの視角は、南北に分断されていたベト ナムを統合するための方便として「伝統医学」概念が持ち出されていた点であ る。当時の医学・薬学雑誌や民族誌からは、元来ベトナム北部で誕生した「南 薬」という概念は、ベトナム南部においてはほとんど浸透していなかったのでは ないかと考えられる。そのような地域を統合していく上で用いられるようになっ たのが、「ベトナム民族」の「民族医学」という呼称であり、これを理想として 掲げるようになったのである。つまり、ベトナムの「伝統医学」が生み出され、 公的医療制度に取り入れられてきた社会背景として、外敵を想定したナショナリ ズムの高揚のみならず、国内統合の動きと呼応していた点と、治療法としての有 用な実態があった点を指摘できるのである。そして、ベトナムの公定の「伝統医 学」は浸透度に地域差のあった「南薬」をはじめ、さまざまな概念を包摂しなが ら変容を遂げてきたのであった。

2 小島敬裕
本発表では、中国雲南省徳宏傣族景頗族自治州の瑞麗市近郊農村において実施し た約1年間の定着調査で得た資料に基づき、徳宏タイ族の仏教徒の宗教実践につ いて、国境の地域社会とのかかわりから考察する。
ミャンマー国境に面する徳宏州では、漢文化、ビルマ・シャン文化の影響を受け つつ、独自の文化が育まれてきた。特に1990年代以降は、中国側の経済発展と ミャンマーでの政治的混乱がミャンマーからの越境者の増加を促している。
徳宏タイ族の仏教は、東南アジア大陸部の仏教徒社会の他地域と同系統の経典を 継承し、実施される儀礼にも多くの共通点がある一方で、圧倒的に僧侶が少ない という他地域とは異なった特徴が見られる。これは宗教を否定して出家者を排除 した大躍進・文化大革命期の影響以上に、徳宏ではそれ以前から、仏教徒社会の 他地域で広く見られる男子の出家慣行が同地域にはないことによるものである。
仏教儀礼では、僧侶を招いて布施するよりも仏塔や寺院内の仏像、「経典棚」に 置かれた経典、さらに数々の守護霊への供物の奉納によって功徳や加護を得るこ とが重視されている。在家信徒の誦経専門家(ホールー)や安居期間中に寺籠り して八戒を守る老人(ヒン・ラーイ)は、そうした事物と一般在家信徒との媒介 役を果たす。このように、出家者が介在せずとも在家信徒が中心となって宗教実 践が築かれている。
文革による宗教実践の断絶を経た後、ミャンマー側からの移住者が瑞麗における 実践の担い手となるケースが増加し、それにともなって特にシャン州の実践の影 響が強まりつつある。その一方で、シャン州の実践とは異なる部分も存在し、さ らに教派、村落、個人によって異なる実践の多様性が見られる。これは、近代国 家の成立以前からミャンマーや北タイから数多くの教派が徳宏に流入した経緯に 加えて、同一教派内でも様々な実践が築かれ、それが師弟関係によって継承され てきたことによる。また徳宏の伝統的な政治権力者ザウファーもこうした実践の あり方を容認してきた歴史的事実がある。改革開放後、中国政府は仏教の管理を 進めてきたが、功徳や加護を得るための実践の作法や定義を規定する制度的な措 置や範例を浸透させているわけではない。こうした要因が、僧俗双方のレベルで 流動的にして多様な実践を可能にしており、国家や制度が分節化する以前の地域 に根ざした実践のあり方が見られるのである。

世話人・連絡先
片岡樹・kataoka[at]asafas.kyoto-u.ac.jp
蓮田隆志 hsd[at]cseas.kyoto-u.ac.jp
速水洋子 yhayami[at]cseas.kyoto-u.ac.jp
渡辺一生 isseiw[at]cseas.kyoto-u.ac.jp