日 時:2011年3月11日(金)〜13日(日)
場 所:KKRホテルびわこ http://www.kkrbiwako.com/index.htm
【趣旨】
大規模な環境変動やエネルギーの枯渇が抜差しならない問題となりつつある現在、私たちはいかなる価値観をもち、いかなる方向を目指すべきかについて再考する必要性が高まっている。本GCOEプログラムでは、資本の蓄積と生産性の向上を核とする既存の「生産」パラダイムを超えて、持続的に人々の「生存」を支える社会を構築することが重要であるとの認識のもと、多分野の研究者が連携しながら議論を進めてきた。「生存を支える『地域/研究』の再編成」(2008年度)、「人間圏を解き明かす」(2009年度)に続いて第3回目を迎える本シンポジウムでは、「親密圏」「レジリエンス」「知の接合」といった問題系に焦点を当てながら、人間圏の再構築に向けて議論を行いたい。
主流の開発ディスコースが指し示すような行程、例えば個々人のケイパビリティを高めることで力強い市民社会を構築したり、自然の客体的操作にもとづいて生産の効率化を推し進めるといった道筋が持続的な生存基盤に導くと考えることは、今日ではますます困難になっている。ここで「親密圏」と呼ぶのは、そこで見過ごされてきた、人々が具体的な他者と関係し、かつ他者の困難に応答しうることによって可能になるケアの実践、またそのような実践がつくりだす多様なネットワークであり、「レジリエンス」と呼ぶのは、不確実性を内包する自然のうえに柔軟な生存基盤を築き、それを持続させる人びとの力のことである。これらの目的は、ローカルな知や技術・制度だけでも、科学技術や、市場や国家のような「インパーソナルな」諸制度だけでも達成されえない。この両者をいかに関係づけるかということが「知の接合」という問題系である。
本シンポジウムの目的は、以上のような問題について、具体的な事例の検討を通じて分野横断的な議論を行うことで、持続的な生存基盤に向けた人間圏の再構築の方向性を見定めることである。
【プログラム】
3月11日(金)
15:00-15:20 シンポジウムの趣旨説明
セッション1 生存とケアの親密圏
座長: 岩佐光広
コメンテーター: 後藤晴子、伊東未来
15:20-16:00 石本雄大 「ブルキナファソの半乾燥地域における生計維持システムの研究―旱魃や虫害への適応および対処行動に関する統合的分析
16:00-16:40 澤野美智子 「「親密圏」としての「家族」?―韓国の家族研究の展望」
16:40-16:50 休憩
16:50-17:50 コメント・討論1
19:30-22:30 参加者の研究紹介1
3月12日(土)
8:30-9:00 GCOEプログラムの紹介1
セッション2 生態資源の利用と社会関係
座長: 丸山淳子
コメンテーター: 松村圭一郎、佐藤吉文
9:00-9:40 山本佳奈 「湿地における「個人の土地」と「みんなの土地」のせめぎあい―タンザニア農村部の耕地と放牧地をめぐる住民の対立」
9:40-10:20 鈴木遥 「森林へのケア―インドネシア東カリマンタン州沿岸村落における木造住居の修理・建て替えを事例に」
10:20-10:30 休憩
10:30-11:30 コメント・討論2
セッション3 生存基盤をつくりだす実践共同体
座長: 西真如
コメンテーター: 宍戸竜司、菅沼文乃
13:00-13:40 岡部真由美 「現代タイにおける開発と僧侶をめぐる一考察―寺院および地域コミュニティにおける僧侶の実践とネットワーク形成を中心に」
13:40-14:20 浅野史代 「ブルキナファソ、ビサ社会における女性の生活と「開発」の関係」
14:20-15:20 コメント・討論3
15:20-15:40 休憩
セッション4 生命圏、親密圏をむすぶ芸術と宗教
座長: 福井栄二郎
コメンテーター: 別所祐介、清水貴夫
15:40-16:20 渡辺文 「関係性としてのスタイル―オセアニア芸術における個性と集合性の調停メカニズム」
16:20-17:00 徳安祐子 「死者がつなぐ人と自然―ラオス山地民カタンの村の事例から」
17:00-18:00 コメント・討論4
19:30-22:30 参加者の研究紹介2
3月13日(日)
8:30-9:00 GCOEプログラムの紹介2
セッション5 アクターをむすぶ技術とコミュニケーション
座長: 木村周平
コメンテーター: 内藤直樹
9:00-9:40 李豪軒 「電子業界における日本企業と台湾企業のエンジニアの比較―共同体意識と「株」からの考察」
9:40-10:20 平井將公「生物資源、地域住民、行政の交錯が生み出す新たな技術―セネガルのセレール社会における樹木資源の稀少化とその対処」
10:20-10:30 休憩
10:30-11:30 コメント・討論5
13:00-15:00 総合討論
日 時:2010年12月14日(火) 15:00-18:00
場 所:京都大学 稲盛財団記念館 中会議室
<共催>
G-COE Initiative 1 およびInitiative 4, 現代インド地域研究(KINDAS)
タイトル:"Changing Position of India in World Politics and Security".
Program:
15:00-15:40 Keynote Speech by Swaran Singh (Professor, Jawaharlal Nehru University)
15:40-16:15 Discussion
16:15-16:30 Break
16:30-18:00 Session: Security Issues of India
16:30-16:45 Hiroki Nakanishi (Ph.D. Candidate, ASAFAS)
“Rethinking U.S.-India Civilian Nuclear Cooperation Agreement: Trade-off between India’s Right of Nuclear Test and Nuclear Cooperation”
16:45-17:00 Shiro Sato (Researcher, CSEAS)
“On the Possibility of Treaty of Non-First Use of Nuclear Weapons between India and China”
17:00-17:15 Tomoko Kiyota (Ph.D. Candidate, Takushoku University )
“India’s Arms Procurement Policy: Equilibrium between Requirement of Indigenous Production and Acquisition”
17:15-18:00 Discussion
英語ページに活動の報告が掲載されています。
English Site
/en/article.php/20101214_ini4
日 時:2010年11月1日(月) 14:00-16:00
場 所:京都大学東南アジア研究所 稲盛小会議室Ⅱ
タイトル:「カンボジア農村における子と高齢者の世帯間移動の互助機能」
発表者:
佐藤奈穂(東南アジア研究所研究員)
要旨:
カンボジア農村に相互扶助慣行は存在するものの,いずれも何らかの目的に特化したものか,期間が限られたものであり,日常的に人々の生活を支える 性格ではないのが特徴である。こうした状況を踏まえ,先行研究では,カンボジアの農村社会に互助メカニズムがなく,農民は個人主義的だという議論 を進め,互助機能が弱いことを強調している。カンボジア北西部の調査村では,農作業や他の経済活動において親子関係であっても,独立した世帯間で共同関係が観察されることは稀である。しか し,子や高齢者のケア労働では,親族の間で子や高齢者を世帯から世帯へ移動させることにより「チュオイ=支援」が行われていた。
生産活動や金銭,モノの賃借・贈与関係から見ればカンボジア農村は個人主義的であり互助機能が弱いとも言える。しかし,子や高齢者のケアに目を向 けると,世帯を超えた親族ネットワークの広がりが見えてくるのである。
平井將公
内線7815
日 時:2010年7月13日(火) 14:00~16:00
場 所:京都大学 東南アジア研究所 稲盛記念館3F小会議室Ⅱ
http://www.cseas.kyoto-u.ac.jp/about/access_ja.html
GCOEイニシアティブ4とイニシアティブ2(人為攪乱研究会)との共催です。
発表者1
平井將公(京都大学東南アジア研究所GCOE研究員)
タイトル:「人口稠密地域における自然利用の技術と制度―セネガルのセレール 社会の事例」
発表者2
村尾るみこ(日本学術振興会特別研究員PD)
タイトル:「ザンビア西部州における生計活動の再編―移動性の高い女性による 現金稼得から―」
【趣旨】
アフリカ大陸の大部分を占める半乾燥地域において、人びとは不安定な自然条件 や、政治・経済環境の激しい変化に生計活動を制約されながらも、それらへした たかに適応してきた側面が少なくない。本研究会では、そうした地域社会の「潜 在力」について自然資源を活用する技術や、社会組織の流動性といった観点から 多角的に検討する。平井は、人口稠密な地域を長年にわたって保持してきた西アフリカのセレール社 会を取り上げ、その自然利用の特性について考察する。セレールは人口増加や市 場経済化の進行にともなって農牧業を有機的に結合し、またその過程では飼肥料 木の優占する植生を耕地上に形成し、維持してきた。この事例をもとに、自然資 源の回復力を最大限に引き出しながら、生産性を高め、社会変化に対応する半乾 燥地の農業について考える。村尾は、南部アフリカの農村における「紛争避難民」の生計維持活動について報 告する。Displacementは、生計破綻の要因として論じられることが多いが、しか しアフリカ社会においては、人口の移動性がむしろ環境制約下での生計維持を可 能にしている局面も少なくない。村尾はさらに「移動性」の別の側面、すなわち 頻繁に結婚・離婚を繰り返しながら村を出入りする女性たちに注目することで、 流動性の高い社会における女性の生計維持の問題について検討する。
【活動の記録】
アフリカの半乾燥地域では、暮らしにかかわる生態・社会・経済のいずれの要素をとっても不確実性が高い。本研究会では、そうした地域に暮らす人びとが、生計を維持するうえでの制約をいかに克服しているのかについて、西アフリカのセネガルと南部アフリカのザンビアの事例から検討された。
一人目の発表者の平井は、セネガル中西部において人口稠密な地域を保持してきた、農耕民セレールの資源利用の持続性について技術と制度の観点から検討した。報告によると、セレールは土地不足を重要課題としてきたが、彼らは農業と牧畜を耕地内で結合させ、また飼肥料木として知られるFaidherbia albidaが優占する人為植生を耕地に形成することで、土地生産性を高めて対処してきた。しかし、飼料や燃料として消費されるこのF.albidaもまた、近年、人口増加との関連から稀少化の傾向にあるという。そこで、人びとは切枝技術(pollarding)やその運用にかかわる社会制度を精緻化しながら、F.albidaの利用を持続化させている。また、F.albidaの大規模な枯死が招かれないのは、技術や制度の精緻化だけでなく、生計における同種の重要性や価値が成員間で共有されている点にも基づいていると指摘された。半乾燥地域では、人間による植物利用が砂漠化の原因とされがちだが、セレール社会が例示するのは、むしろ土地や植生への積極的な人為介入こそが、植生環境を維持しうるということであった。
これに対し、フロアからは技術や制度の形成過程に関する質問が寄せられた。村落内部における成員間の社会関係や、村落外部との交渉史をふまえながら、今後それを明らかにすることが、農業技術の在来性を理解するうえで課題になると思われた。
二人目の発表者の村尾は、1960年代に始まったアンゴラ内戦を避けてザンビア西部州へ移動した移住民の生計維持について、社会組織の再編と女性の現金獲得活動との関係から検討した。それによると、移住民は親族・婚姻関係に基づく従来の共住単位(limbo)を移住先においても編成していた。さらに今日では従来limbo内で生じなかったキャッサバの不足に対して、limbo内での互酬関係をその外の関係と合わせて使い分けることで、生計を安定化しているという。また、村のほぼすべての世帯の生計を支えるキャッサバ販売は、結婚と離婚を契機としてlimbo間を頻繁に移動する女性が担っていることが指摘された。すなわち、女性の移動とともに、キャッサバの販売をめぐる互助的ネットワークは拡大・縮小を伴い再構築されているのである。これまでの難民研究では移住が生計基盤の崩壊につながると考えられてきたが、それに対し本発表では、そのリスクが移住民女性の流動性と移住民固有の社会組織内外での互酬性ネットワーク再構築によって緩和されていることが示された。
フロアからは、limboのもつ社会的特質や生計保障機能に関する質問が多く寄せられ、今後、互助的ネットワークの拡大と共同体内への貨幣流入との関連性を明らかにすることが、リスク緩和の可能性をより明確にするうえで課題になるとされた。
(文責 平井將公)
日 時:2010年6月27日(日) 13:30~16:30
場 所:京都大学東南アジア研究所 東棟107
趣旨説明:木村周平(富士常葉大学)
話題提供:遠藤環(埼玉大学):「重層化する都市構造とインフォーマル経済:グローバル化時代のバンコクを事例に」
原祐二(和歌山大学):「アジア都市の都市=農村の境界域におけるバイオリソースのフローのスケーリング」(仮)
コメント:森田敦郎(大阪大)
(注)本研究会は、同じ日に稲森棟で開催される「第5回ジャカルタ都市研究会」とは別の会合ですのでお間違いのないようにお願いします。
日 時:2010年5月15日(土)13:00~18:30
場 所:京都大学稲盛記念会館3階 中会議室
*_ プログラム_*
1:00-1:10 趣旨 速水洋子 (京都大学)
1:10-2:00 植野弘子 (東洋大学)
「娘に何を期待するのか――漢民族社会における親子のつながり再考」
2:00-2:50 高田 明 (京都大学)
「転身の物語り:サン研究における「家族」の復権」
休憩
3:10-4:00 宇田川妙子 (国立民族学博物館)
「親子関係の複数性という視点:イタリアの事例から」
4:00-4:50 岩佐光広 (国立民族学博物館)
「親子関係の長期的展開――ケア論と親族/家族論の相互検討を通じて」
4:50-5:40 鈴木伸枝 (千葉大学)
「トランスナショナルな家族とジェンダー関係の素描~フィリピン移住者研究の
状況と今後の展開~(仮題)」
5:40-6:30 ディスカッション
*発表時間に、質疑応答も含めます。
趣旨:
少子高齢化がグローバルに進行し、人々の移動と生活の流動は激しくなり、新し
い関係性やライフステージが生まれ、情報や(生殖を含む)技術も錯綜しつつ発展
し、権力の様態もますます多元化していく中で、従来の家族や親族のつながりそ
のものが変容し自明ではなくなっている。ここでは生―権力に抗して人の繋がり
とは何かを、親子のつながりを中心に再考する。親族理論の根幹にあった関係性
を再考し、現代社会の諸相のもとで新たに生起しつつある事象に民族誌的なアプ
ローチを交差させ、「生のつながり」の核となる関係性として、生殖やケアを介
した世代間のつながりとしての「親子」のつながりの新しい見方、新しい局面に
焦点をあてる。親から子、そして子から親へと展開する人の一生の中での親子関
係の展開とそこに生じるケアの問題、そして、国際結婚をめぐる親子関係とを対
象とする場合などにおいて、どのような問いが想定されるだろうか。親族研究に
おける親子関係の理解をどのように新しく構成しなおせるかを問う。
発表要旨:
1 植野弘子氏
人類学における親族研究において、もっとも基本にある「親子」のつながりを再考しようすることは、これまでの親族研究が陥った、「人間」への視点の欠落を克服することを目指さなければならない。構造機能主義の親族研究では、まさに「構造」が問われていたのである。その父系社会の研究では、男性による出自の継承と権利義務関係が課題の中心となってきた。たしかに、ラドクリフ=ブラウンの研究においても、父系体系における母方親族の役割が考察されてはいた。さらに婚姻連帯理論においても父系以外の関係は論じられてきた。しかし、「構造」を問う研究においては、親子のつながりが、その社会においていかに認識されてきたのかについて、十分な考察を行うには至らなかった。
本報告は、こうしたこれまでの親族研究の問題を、再度、男性同士がつなぐ以外の関係から見直そうとするものである。単に「男性ではなく女性に注目する」ということではなく、その女性を捉えてきた視点にも再検討を行なうことが必要である。父系社会の親族・家族をめぐる規範や行為などの研究では、特に女性が結婚してその生きる集団が変化する社会においては、女性については、婚姻後の婚入集団における諸関係に注目して分析が行われる傾向にあった。あたかも、結婚以前の女性の人生は存在しないかのごとき描き方である。しかし、出自の継承に寄与しない娘には意味がないわけではない。親と娘の間の双方の生涯にわたる関係性を読み解くことから、父系社会において、男女が親として子として生きる様を描き直す必要がある。 本報告での分析対象は、台湾の漢民族社会を中心とする。漢民族の親族体系は父系出自・夫方居住婚を特徴としており、女性は、死後、夫方において祖先祭祀の対象となる。しかし、女性を介在した出生家族と婚入家族と間の親族関係は、多面に展開する。母方オジには儀礼的な優位があり、また贈与を期待できる相手である。岳父と娘婿は、社会生活においても儀礼においても、期待される役割を相互に負っている。こうした関係からは、父親にとっての、媒介者としての娘の役割がみてとれる。また、親の供養には娘に特別の役割が与えられるなど、親と娘の間には、婚出後にも強い絆と果たすべき役割が存在してきたのである。女性たちの語るライフヒストリーから、娘からみた親との関係を抽出し、時代の変化を踏まえつつ、親子のつながりを再考する視点について論じる。
2 高田 明氏
本発表では,これまでのサン研究における「家族」の位置づけを整理し,そうした研究史と関連づけながらナミビア北中部のクン・サンのライフストーリーを分析する.これを通じて,サンにおけるエスニシティと家族の関係を問い直す.
初期の研究者は,現代の「狩猟採集民」であるサンはごくシンプルな形で社会秩序を維持しており,家族的な結合がその基礎になっていると主張した.この家族を中心とする仕組みは,サンの人間観や人間関係にも現れていると考えられた.たとえばSilberbauer(1981)は,自己を中心とした同心円状に血縁の深い順に親族が並び,その外側に別のサンのグループ,サン以外の人々が続くモデルを提示している.
だがほどなく,「見直し派」と呼ばれる研究者が影響力を増すようになった.見直し派は,サンは近隣諸民族を含むより大きな政治経済的なシステムの中で下層に追いやられた人々の集合に過ぎないと主張し,さらに「孤立した自律的なサンの社会」という幻想を創出してきたとして従来の研究者(「伝統派」と呼ばれる)を糾弾した.見直し派の論考では,親族間の関係は土地の権利や交易のネットワークを支える仕組みと位置づけられている. 私が調査を行ってきたナミビア北中部のクン・サンは,上の「カラハリ論争」の主な対象となったジュホアン・サンと多くの文化的要素を共有している.ただしジュホアンとは異なり,近隣の農牧民と数世紀に渡って多面的な関係を築いてきたことが広く認められている.クンのライフストーリーをたどると以下のような事例が見つかる.(1)クンの母親と農牧民の父親を持ち,農牧民として育てられた男性が,父親の死後は母親と一緒にクンのキャンプに移住し,クンとして生活するようになった.(2)クンの少女が農牧民に養取され,農牧民の子どもと一緒に育てられていたが,妊娠を機にクンのキャンプに戻った.(3)クンの男性が南アからの解放運動に参加して,国外で農牧民と共に活動していた.しかし,ナミビアの独立後はクンのキャンプに帰還してそこで暮らすようになった. ここにあげた人々は,農牧民と生活していた時にはクンに他者としてのまなざしを向けていた.しかし,後にクンのキャンプに移動してきた際には,親族のつながりを頼った選択という論理を用いて,エスニシティの境界を越える移動に合理的な説明を与えている.これによって人々は,クンと農牧民が形作ってきた社会構造を壊すことなく,自らの転身に伴ってそのエスノスケープを変化させている.クンを他のアクターから隔てる文化的な境界が激動の歴史の中でもリアリティを失わなかった理由の1つは,こうした親密な関係性の再帰的な利用にあるのであろう.したがってクンの社会を理解するためには,伝統派と見直し派のいずれとも異なる枠組みで家族の働きを分析していく必要がある. またこうした図式は,エスニシティと家族の間だけではなく,原理的には国家などの組織とそれを横断するエスニシティとの間にも成り立ちうる.したがってサン研究における家族の復権は,社会を構成するシステム間の関係のとらえ直しを促すものでもある.
3 宇田川妙子氏
親子関係は、本フォーラムの基底をなす概念「生のつながり」の中核の一つだが、そもそも親子関係とは何なのかという問いは、そう簡単ではない。特に近年では、医療技術の発達とともに親子・親族の関係がDNAレベルで語られるようになり、定義がさらに曖昧になる一方で、その認定や登録が行政レベルなどで必須化されてきており、ますます多くの関心や権力が、親子という場に集中しつつある。
もちろん親子関係の定義の難しさについては、人類学でも早くから議論がなされてきた。しかしそこでは、genitor/paterのように、生物学中心主義的な立論傾向が強くみられ、きわめて西洋的な親族観が隠されていた。たしかにSchneiderらによる批判はあったが、その後も根本的な変化は見られない。実際、1990年代以降の「親族研究の復興」も、その多くは西洋社会や国家施策や医療などのいわば西洋的な現象をフィールドとしているし、とくに活性化している新生殖技術にかんする議論も、その中心は西洋的な自然/文化という図式をめぐるものである。また、今日の親族研究は、事実上、核家族の範囲に集中していることにも注意したい。核家族とは、性(夫婦)と生殖(親子)がクロスするという意味で、まさに生物学的な親族関係の象徴的な場であり、しかも、歴史的に「近代家族」と呼ばれているように西洋的な親族観の所産でもあるからだ。つまり「新生殖技術時代」の親族論も、いまだ西洋的な枠組みを脱していないばかりか、むしろ、その脱構築をいたずらに標榜することによって一種のinvolution状態にあるとも言えるだろう。
さて本発表では、以上のような親族研究の現状とは一線を画し、現在大きな社会問題にもなっている親子問題にも一石を投ずる議論を試みていきたい。具体的な事例としてはイタリアでの調査資料を用いるが、その際、親子関係の複数性・複相性という視点を重視していく。
もちろんイタリアでも、ある子供の親とは、たいてい、その子を性=生殖行為によって生んだ男女とみなされている。こうした生物学的な親子の観念は、国家や教会とも結びつき、2004年に成立した補助生殖医療法(第三者からの配偶子提供禁止等々)にも典型的に示されている。しかしその一方で、養子も(最近では国際養子も)少なくないばかりか、いわゆる実の親子でないことに対する偏見や抵抗は小さく、養取をした親のうち実子がいる割合も半数近い。また、オジ・オバ等の近親(とくに独身のオバ、最近では祖父母)が親代わりに面倒をみることもよくあるし、子供の精神的な模範とされている洗礼親も、子供の生活に大きな助けとなる場合もある。つまり、子供たちの生活には、通常、いわゆる親以外にもさまざまな役割(財産、衣食住、教育、世話等々)をする大人たちが、様々な形で関わっているのである。
こうした視点からみると、(子供の親を明確に確定してそれだけを親子関係とみなす)現在主流の親子関係とは、多様な親子関係の一元化、さらに言えば「誕生」地点への一元化(矮小化)であると見直すこともできよう。実際、イタリア社会でもその傾向はみられる(ただし現在では逆の現象も出てきた)。またその背後には、人々の関心が、親子関係という「関係」から、親であること・子供であることという「地位」へとシフトしていく様子も見られ、それはアイデンティティ、心理、自己決定、個人、身体、生命などの言説の増加、すなわち人間観そのものの変化とも密接にかかわっていると考えられる。
本発表では、これらの問題を総合的に議論することはできない。しかし、親子関係の複数性・複相性(の可能性)に目を向けることによって、そもそも親子関係とは他の親族や非親族の関係とどう差異化され、どう位置付けられているのか、そしてそこには生物学的な指標はどのようにかかわっているのか(いないのか)等々、具体的にはイタリアの事例を考察するとともに、親子関係一般についても、主流観念を根本的に相対化し再考する手掛かりを探ってみたい。
4 岩佐光広氏
本発表では、ラオス低地農村部における親子関係を事例として取り上げながら、1)社会学や医療研究を中心にケア論と、人類学における親族/家族研究の批判的接合を試みるとともに、その視点から、2)親子関係の長期的展開という論点を提示する。
「ケア」という概念は、人々の個別性を前提とし、人間関係の多様なあり方とそこで営まれる実践の創発的な展開に注目するものである。グローバル/ローカルな変化が連動して進行し、親族や家族をめぐる諸関係が多様化/均質化する現代社会において、その様相を捉える視点としてケア概念への関心が高まり、盛んに論じられている。対して文化人類学においてケア概念は、必ずしも十分には検討されてこなかった。しかし、ケア論と人類学の親族/家族研究とを相互参照してみると、それぞれの利点と欠点が見えてくる。人々の個別具体的な実践を通じて多様な社会関係が生成・展開することへの注目を促すケア論は、そうした動きを静態的に捉えがちな構造機能主義的な親族/家族研究が抱える問題性をよりクリアにしてくれる。反面、現行のケア論は、個別具体的な関係と実践に焦点化するあまり、それぞれの関係に潜在/顕在している社会文化的な構造や規範を不可視化しがちである。結果として、個々の関係のあいだの連関が捉えられず、断片化した議論に陥っている。ケア論と親族/家族研究それぞれが抱える理論的負荷を踏まえつつ、両者が有する理論的可能性を批判的に接合することは、いずれにとっても重要な意義をもつと考えられる。
この立場から親子関係の理解を試みるとき、和辻哲郎が指摘する「親子関係の長期的展開」という論点が重要であると考えられる。ケア論と親族/家族研究の両方において、親子関係はしばしば子育てと老親の扶養から捉えられてきた。しかし親子関係はこれらの関わりにのみ還元できるものではない。出産/出生、子育て、親子間の協働、老親の扶養、看取り、葬送儀礼。親と子は、それぞれの加齢に伴い、親子という関係自体は維持しつつも、その関係のあり方を変えていく。それは、それぞれの社会構造や文化的傾向性によってある程度規定されつつも、親と子それぞれの個人的な条件(成長や衰えのペース、結婚や出産のタイミングなど)にも左右される。そしてそうした諸条件のなかで、親と子のあいだで無数に積み重ねられた実践を通じて、それぞれの関係のあり方は分けられ、移行され、つなげられる。子育てや老親の扶養といった親子間での様々な関わりはいずれも、親子関係の長期的展開のなかで生起する、関係性の通時的な動態過程の一局面として立ち現れるものなのであり、それぞれの局面ごとの個別具体的な実践の積み重ねが親子関係を長期的に展開する動因となるのである。
5 鈴木伸枝氏
人類学では、20世紀終わりからそれまでしばらくなりを潜めていた親族研究が、新たな形で重要性を増してきている。その理由の一つは、2010年現在、世界に2億人以上が移住者として生活している状況があり、他方、硬直した構造やシステムから文化の生成過程や人のエージェンシーに着目するようになった理論的展開がある。本報告は、人の国際移動が活発化する中で生まれているトランスナショナルな(超国民的と/または超国境の)家族関係と、そうした家族の形に密接に関係するジェンダーとセクシュアリティの諸相を概観することを目的とする。人の国際移動研究は近年非常に活発であるが、文化人類学の新しい親族研究が提示する視座からの考察は発展途上といえる。
本報告(研究ノート)では、親族研究の新しい方向性を概観したうえで、人の国際移動とトランスナショナルに展開する親族関係、ならびに親族形成の土台となるジェンダーとセクシュアリティ問題の理解の深化を図るため、世界で最も組織化されていると考えられる移住労働立国フィリピンからの移住者に関する考察ならびに関連の文献をレビューする。それと同時に、報告者がこれまで行ってきた在日フィリピン人の越境(クロス・ボーダー)結婚と「ジャパニーズ・フィリピーノ・チルドレン」などの例を引きながら、今後期待される親族関係研究を提示したい。
日 時:2010年4月19日(月) 13:30~15:00
場 所:京都大学 東南アジア研究所 稲盛記念館3F小会議室
http://www.cseas.kyoto-u.ac.jp/about/access_ja.html
報告者:島田周平(京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科 教授)
話題:「地域紛争と環境問題:ナイジェリア産油地域で起きていること」
コメンテーター
1)佐藤史郎(東南アジア研究所GCOE特定研究員)
2)佐川徹(日本学術振興会特別研究員PD)
【活動の記録】
地域社会における紛争は、地域の生存基盤にとって深刻な脅威である。本研究会では島田周平氏が、国家や多国籍企業による石油開発のもとに紛争がおきている ナイジェリアのニジェールデルタ地域をとりあげ、紛争の要因について幅広い観点から分析をおこなった。
第1の要因は、民族間関係の歴史である。石油を産出するニジェールデルタ地域での紛争は1990年代以降、大衆運動や暴力行為の多発にみられるよう に過激化の過程をたどってきたが、島田氏はその一因を同国の民族関係の歴史的展開にもとめている。独立以前、「少数派でありつつも、大民族を支配する奴隷 貿易の担い手」だった同地域の住民は、独立後の政権や貿易構造の変革なかで「国家財政の支柱となった石油産出地域(=ニジェールデルタ地域)に暮らしなが らも、政治経済的なマイノリティ」へと立場をかえていった。こうした過去の対立的民族間関係が近年の石油開発と交錯し、紛争の根幹の一部をなしているとい う。
第2の要因は、石油開発にかかわる多国籍企業と住民とのネガティブな関係性についてである。同地域の生態環境は海域、汽水域、淡水域を含み、多彩な 漁労や農業のほか、水網を利用した交易業も盛んであった。だが石油開発はそうした生活の場を大きく撹乱し、住民は不満を蓄積させ、国内・国外にむけた訴訟 や石油生産施設の占拠といった運動を展開するようになっている。他方、企業は住民に奨学金や雇用機会を提供する一方で、地元の政治家や有力者を取り込ん で、操業の維持を図ってきた。
第3は、連邦政府と住民とのネガティブな関係性である。連邦政府は、地域住民の不満を和らげるために産油地域への地方交付金の配分比率を引き上げた ものの、多くの住民はさらに多くの配分を望んでいる。結果、住民は政治経済的な疎外感を募らせ、石油施設の破壊や運営妨害、従業員の誘拐・殺害といった暴 力行為を展開した。連邦政府はこれに対して軍事力を用いて応戦し、紛争は過激度を増大させるにいたった。
第4は、近隣国における紛争との関連性についてである。紛争はナイジェリアの近隣国でもおきている/いたが、その民主化や市場経済化にともない、武 器がナイジェリアへと流入するようになった。同時に、連邦政府による多国籍企業の保護政策が継続・強化されたことによって住民の反発が増大し、地方有力者 の私兵組織や若者武装集団が増加した。以上のように、ニジェールデルタ地域の紛争過程は、石油開発と環境破壊を近接要因として展開しているようにみえる が、その展開は民族間関係の歴史や、多国籍企業、連邦政府、近隣国の振る舞いといった多彩な要因の複雑な絡み合いによって方向付けられている。
この報告に対し、コメンテーターからは以下のような意見が提出された。まず、佐藤氏は、若手集団の武装化に注目すると、この紛争は資源やテリトリー をめぐる利害関係、あるいはアイデンティティといった価値に根ざした争いであるというよりも、暴力行為そのものが目的化しているようにみえると述べた。次 に、佐川氏は、住民の武装組織の名前や、デルタにおける生態条件の不確定性の高さに由来した生活単位の小規模性に注目し、住民がもつ紛争に対するイデオロ ギーの統一性は薄いと述べた。フロントからも数多くの意見がよせられた。そのなかでとくに印象的に残ったのは、ニジェールデルタ地域は植民地期から外部社 会との交渉を志向するという地域性をもち、よって彼らが今抱えている不満は、グローバルな環境と自らとの関係構築の抑圧に由来するという、田辺明夫氏の意 見である。内発的な地域発展の経路を見出す術を問うたこの質問に対し、島田氏は、伝統的な生業や制度を見直すとともに、実現可能な小さなことを地道に積み 重ねることが重要だと述べた。
(文責 平井將公)
日 時:2010年3月14日(日)〜16日(火)
場 所:KKRホテルびわこ http://www.kkrbiwako.com/index.htm
【趣旨】
エネルギー問題や大規模な環境問題が顕在化しつつある現在、必要なのは何を「持続可能性」の核とすべきか、という問いである。本グローバルCOEは、それを「生存基盤」だと考え、地球圏・生命圏・人間圏の相互作用のなかで、生存基盤の持続をもたらすような発展はどのようになされうるのかを考えてきた。
こうした背景に基づきながら、本シンポジウムは、人間の多様な社会、またそこにある知識や価値、制度や歴史を包摂する広い概念としての「人間圏」に焦点を当て、生を支える社会関係や環境がいかに形づくられているかについて議論したい。植民地主義や近年のグローバル化の大きな流れの中で、都市や地域社会ではどのような問題が現われ、どのように対処されているのか。生存を支える信仰や思想は、今どのようなあり方をしているのか。多様な社会状況についての事例を通じて、こうした問題を明らかにしたい。
【プログラム】
3月14日(日)
15:00-15:20 シンポジウムの趣旨説明
◇セッション1 環境思想と地域社会の生存基盤 座長 中川理(大阪大学)
15:20-16:00 石坂晋哉(京大東南研)「『たたかいの政治』から『つながりの政治』へ―現代インドの環境運動」
16:00-16:40 安田章人(京大ASAFAS)「『持続可能な』野生動物管理の政治と倫理―カメルーン・ベヌエ国立公園地域におけるスポーツハンティングと地域住民の関係を事例に」
16:40-16:50 休憩
16:50-17:50 コメント・討論1
コメンテーター 松村圭一郎(京大人環) 吉田早悠里(名古屋大学)
19:30-22:30 参加者の研究紹介1
3月15日(月)
8:30-9:00 GCOEプログラムの紹介1
◇セッション2 環境の在来知、つながりの在来知 座長 内藤直樹(国立民族学博物館)
9:00-9:40 中川千草(関西学院大学)「トウヤ制度の変更と社会文節の再編プロセス―三重県熊野灘沿岸部・相賀浦 地区を例に」
9:40-10:20 富田敬大(立命館大学)「ポスト社会主義期の地方社会と牧畜経営―モンゴル北部・オルホン郡の事例から」
10:20-10:30 休憩
10:30-11:30 コメント・討論2
コメンテーター 加藤裕美(京大ASAFAS) 平井將公(京大ASAFAS)
◇セッション3 民衆の宗教・民衆の政治 座長 藤本透子(京大人環)
13:00-13:40 二宮健一(神戸大学)「ジャマイカの『ダンスホール・ゴスペル』―パフォーマティヴに構築されるキリスト教徒の『男らしさ』の考察」
13:40-14:20 八木百合子(総合研究大学院大学)「アンデス高地農村における聖人信仰と祭礼をめぐる社会関係」
14:20-15:20 コメント・討論3
コメンテーター 野上恵美(神戸大学) 和崎聖日(京大ASAFAS)
15:20-15:40 休憩
◇セッション4 都市の形成史と社会 座長 久保忠行(神戸大学)
15:40-16:20 松原康介(東京外国語大学)「中東における都市保全計画の変遷―フランス植民地主義から世界遺産保全へ」
16:20-17:00 山田協太(京大ASAFAS)「近代都市あるいは都市の近代―南アジアのオランダ植民都市、コロンボ、コーチン、ナーガパッティナムの経験をつうじて」
17:00-18:00 コメント・討論4
コメンテーター 永田貴聖(立命館大学) 西垣有(大阪大学)
19:30-22:30 参加者の研究紹介2
3月16日(火)
8:30-9:00 GCOEプログラムの紹介2
◇セッション5 都市下層民にとっての生存とつながり 座長 山崎吾郎(大阪大学)
9:00-9:40 清水貴夫(名古屋大学)「少年の移動『ストリート・チルドレン』―ワガドゥグの事例を中心に」
9:40-10:20 日下渉(京大人文研)「『買票』か『福祉サービス』か?―マニラ首都圏の地方選挙におけるモラリティ」
10:20-10:30 休憩
10:30-11:30 コメント・討論5
コメンテーター 稲津秀樹(関西学院大学) 白波瀬達也(関西学院大学)
13:00-15:00 総合討論 片岡樹(京大ASAFAS)白石壮一郎(関西学院大学)
【要旨】
◇セッション1 環境思想と地域社会の生存基盤
「『たたかいの政治』から『つながりの政治』へ―現代インドの環境運動」
石坂晋哉(京都大学東南アジア研究所)
本発表では、現代インドの環境運動を分析する視角・枠組として、従来の社会運動論の中心的概念であった「たたかいの政治(contentious politics)」に代えて、「つながりの政治(connective politics)」という新たな概念を用いるのが有効であることを示したい。
そのために、インド環境運動史を概観したうえで、(1)70年代のチプコー運動(森林保護運動)、(2)80~90年代のテーリー・ダム反対運動、(3)2000年代の西ガーツを救え運動の事例をピックアップして検討するが、特に、2010年2月18~20日に南インド・タミル・ナードゥ州コタギリ(西ガーツ山脈南端部)で開催される西ガーツを救え運動の集会の分析が中心となるであろう。
「『持続可能な』野生動物管理の政治と倫理―カメルーン・ベヌエ国立公園地域におけるスポーツハンティングと地域住民の関係を事例に」
安田章人(京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科)
スポーツハンティング(以下、SH)、いわゆる娯楽のための狩猟は、近年アフリカにおいて、大きな経済的利益を生み出す「持続可能な」野生動物管理の手段として注目されている。そのきっかけとは、東・南アフリカ諸国において、80年代末期に開始されたSHを基盤とした住民参加型保護政策が成功をおさめたことにある。その成功の鍵とされたのは、地域住民への経済的便益の分配と、住民の主体性の重視であった。そして、近年、成功例とされた政策モデルは、西・中央アフリカ諸国へと伝播しつつある。しかし、「持続可能性」を掲げたSHを基盤とした政策モデルに対するアプローチには、社会的・政治的コンテクストからの考察が欠如しており、地域社会に与える社会的影響は十分に明らかにされていない。
本発表では、SHを基盤とした住民参加型保護政策モデルが導入・実現されようとしている地域として、カメルーン・ベヌエ国立公園地域をとりあげる。そして、経済的便益の分配と住民の主体性に注目し、地域住民の生活実践の観点から、SHにおける「持続可能性」および政策モデルへの再検討を試みる。
◇セッション2 環境の在来知、つながりの在来知
「トウヤ制度の変更と社会分節の再編プロセス―三重県熊野灘沿岸部・相賀浦地区を例に」
中川千草(関西学院大学大学院社会学研究科)
三重県の熊野灘沿岸部を歩いていると、「うちは浦方」「あそこは竃方」といった会話を耳にすることがある。「浦方(ウラ)」とは漁業で生計を立てるむらであり、「竃方(カマ)」とは漁業権をもたないむらを指す。同沿岸部のむらはこのどちらかに区分されるが、本研究の対象地は、両者が1875年に行政合併を果たしたうえで誕生したウラ・カマ混成のむらである。とはいえ、今日に至るまで、居住地や組織、祭祀など、生活の根幹部分において、お互いを区分する生活を営んできた。
2004年、その区分の象徴といえるトウヤ制度に変化がおとずれる。ウラ世帯のみで担われてきた氏神の守り役「トウヤ」がカマにも回されることになったのである。一見「おおごと」のようにもみえるこのできごとを、住民は実に粛々と受け入れ、実行していった。
本研究では、このトウヤ制度の変更を取り上げ、ウラ・カマという社会分節の意味を現地の文脈から問いたい。
「ポスト社会主義期の地方社会と牧畜経営―モンゴル北部・オルホン郡の事例から」
冨田敬大(立命館大学大学院先端総合学術研究科)
世界で二番目の社会主義国となったモンゴルは、1990年代初頭に市場経済へと移行した。いうまでもなく、市場経済化の波は、地方社会にも押し寄せた。なかでも、1991年に始まった協同組合の民営化は、社会主義時代の国内分業を支えた定住地(商業・貿易の拠点)と草原(畜産物の生産地)の関係に大きな変化をもたらしている。本発表では、このような定住地と草原の関係を中心に、モンゴルの地方に暮らす人びとが、彼らをとりまく厳しい経済状況のなかで、家畜飼育を通していかに生き抜いてきたのかを検討する。まず、地方の人びとが、市場経済化後の経済的な困難に対処するために、各地域のもつ特性を最大限に活かしながら家畜飼育と居住地の選択を行ってきたことを示す。その上で、草原と定住地がひとつの連続した生活空間として人びとに認識されており、両地域における牧畜経営の多様なあり方が複数の家族の協力関係によって支えられてきたことを明らかにしたい。
◇セッション3 民衆の宗教・民衆の政治
「ジャマイカの『ダンスホール・ゴスペル』―パフォーマティヴに構築されるキリスト教徒の『男らしさ』の考察」
二宮健一(神戸大学大学院国際文化学研究科)
本発表は、ジャマイカで近年盛んになっている「ダンスホール・ゴスペル」と呼ばれる音楽形態を扱う。これはキリスト教徒の男性が世俗の音楽である「ダンスホール音楽」の表現様式を用いてキリスト教的なメッセージを歌うものである。そもそもジャマイカの教会は「ダンスホール音楽」とその生産・消費の場である「ダンスホール」を強く批判しているという背景があるため、「ダンスホール・ゴスペル」には教会コミュニティでも賛否両論が聞かれる。
本発表はこの「ダンスホール・ゴスペル」の「男らしさ/男性性」に注目しながら、この音楽の歌い手であるゴスペルDeejayのパフォーマンスを通じたアイデンティティ構築や、それが教会コミュニティに及ぼす影響をフィールド資料から描き出す。
その考察のために、ジェンダー研究において大きな影響力を持ったJ. バトラーのパフォーマティビティの概念と、それを文化人類学的なアイデンティティ/コミュニティ研究のために援用した田辺繁治らによる概念枠組みを試用する。
「アンデス高地農村における聖人信仰と祭礼をめぐる社会関係」
八木百合子(総合研究大学院大学文化科学研究科)
アンデス農村で催される聖人祭礼では、主催者となった人物は多大な労力と出費を負担しなければならない。そのため、多くの場合、主催者は親族関係や「アイニ」と呼ばれる村落における互酬的関係など、個人がもつ様々な関係を通じて、祭礼の費用や物資の調達を可能にしてきた。しかし1960年代以降は、アンデス高地の農村地域からも都市への移住者が増大したことで、村落の祭礼を支える人びとのつながりはしだいに都市移住者の間にまで拡大していった。近年では、村落基盤の社会関係を利用する一方で、移住者を巻き込んだ資金調達のための数々の取り組みが行われている。
本発表では、そうした祭礼をめぐって展開される主催者たちの営みに焦点をあて、彼らがいかなる社会関係を駆使し、祭礼の維持や発展に努めているのか、その仕組みを明らかにすることで「人間圏」を解き明かす一助としたい。
◇セッション4 都市の形成史と社会
「中東における都市保全計画の変遷―フランス植民地主義から世界遺産保全へ」
松原康介(東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所)
中東・北アフリカ地域の歴史都市には、多彩な交流の中で成熟してきた独自の空間原理が見出される。20世紀に入ると様々な都市問題が顕在化するとともに、歴史都市の保全が試みられるようになる。嚆矢となったのはフランスによる植民都市計画であり、旧市街を手付かずのまま保全し、バロック型の新市街をその外殻に建設するという分離政策によって保全を実現しようとした。しかし、凍結的な保全は実際に人が住んでいる都市にはそぐわない。結果として加速した老朽化や過密化への対応として、ユネスコが世界遺産登録を推進する一方、独立後の都市計画には、必要な範囲での旧市街への介入、活性化が織り込まれるようになる。保全と近代化をいかに調和的に実現するかが課題となったのである。
本発表では、こうした都市保全計画の変遷と都市空間の変容を、モロッコのフェス、シリアのダマスカス、アレッポを事例に報告する。更にその背景にあった番匠谷尭二ら日本の都市計画家の業績も紹介し、都市保全を通じたわが国と中東・北アフリカ地域との交流のゆくえを展望する。
「近代都市あるいは都市の近代―南アジアのオランダ植民都市、コロンボ、コーチン、ナーガパッティナムの経験をつうじて」
山田協太(京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科)
本研究では南アジアにおいて、近代世界の起点とみなされる、17世紀にオランダが建設した3つの植民都市、コロンボ、コーチン、ナーガパッティナムを対象として、その形成と現代に至るまでの変容を論じる。植民都市はヨーロッパと南アジアの海域世界、地域社会が交錯する焦点である。物理的空間と人々、制度・組織を手がかりに、各要素の相互作用の連鎖として都市の描出を試みる。主要な局面において3都市を相互に参照することで、海域、地域の動態を浮かび上がらせたい。
I.ウォーラーステインは『近代世界システム』(1974年)において16-17世紀のオランダを、現代世界を覆うまでに成長した資本主義の草創期の主導者と位置付ける。本研究はこれを出発点としつつ、植民都市という定点からの観察をつうじて、近代世界の担い手であるオランダと現地社会との邂逅の構図を再考する。
◇セッション5 都市下層民にとっての生存とつながり
「少年の移動と『ストリート・チルドレン』―ワガドゥグの事例を中心に」
清水貴夫(日本学術振興会/名古屋大学大学院文学研究科)
ブルキナファソの首都、ワガドゥグ市は推定150万人ほどの人口を擁するブルキナファソの政治経済の中心都市である。ワガドゥグ市には、アフリカの多くの大都市と同様に、路頭で生活する「ストリート・チルドレン」が存在する。
「ストリート・チルドレン」は都市の社会問題と同義で用いられることが多い。だが、本発表では、こうした少年たちのストリートへの出奔を、「社会問題」として扱う以前の、都市への「移動」の現象レベルに引き戻して捉え直すことを目的とする。
人々の都市への「移動」については、都市人類学を中心に多くの研究の蓄積がある。例えば、ガーナ北部から都市部への若年貧困男性の移動を扱ったHartの研究は、経済的な動機付けを持つ人々の「移動」が機能的な意味を持つことを指摘している。だが、本発表の事例に挙げる少年の「移動」は、機能主義的観点から説明することが困難な、目的の明らかでない移動である。
「『買票』か『福祉サービス』か?―マニラ首都圏の地方選挙におけるモラリティ」
日下渉(京都大学大学院人文科学研究所)
一般に、フィリピンの選挙ではエリートが貧困層の票を買う「買票」が蔓延しているとされる。これに対して、カトリック教会やNGOは「有権者教育」を行い、貧困層が金に操作されず、「正しく」投票できるようしようとしてきた。
もっとも、エリートも貧困層も、直接的な金銭と票の交換はモラル的に否定する。そこで、選挙直前に公的に行われるのは、エリートによる葬式・結婚式・祭りへの参加と金銭の提供、医療ミッション、無料法律相談といった貧困層への「福祉サービス」の提供である。
こうした相互関係は、クライエンタリズム論によって説明されてきた。エリートが提供する資源に、恩義を抱いた貧困層が票を提供しているというのである。しかし、それでは、「買票」を否定しつつ「福祉サービス」を正当化するようなモラルの動態を捉えられない。
本報告では、マニラ首都圏の地方選挙において、エリート(市議)、貧困層、NGOの間で、「買票」と「福祉サービス」をめぐるモラルがいかに争われているのかを明らかにしたい。
【活動の記録】
第2回合宿シンポジウムは、関西を中心に8つの大学に所属する、人類学・地域研究・社会学・建築史・都市計画などを専門にする40人近くの若手研究者が参加した。そこでは3日間にわたって5つのセッションで10の研究報告が行われ、今回のテーマである「人間圏」や「つながり」ということをテーマに積極的な議論が交わされた(その成果は今後ワーキングペーパー等として公刊される予定である)。加えて、大学・分野を越えた研究者同士の交流を通じ、将来につながるネットワークが形成されたことも、本シンポジウムの重要な意義であった。
個々の研究発表については要旨があるので要約を避けるが、3日間を通じて研究関心や手法は多様であっても、次のような同時代的に共有する方向性があることが参加者の間で確認された。それは、(1)問題を設定するうえで、自/他、民衆/権力、社会/環境のような明確な二項対立を前提とするのではなく、両者の間には分かちがたく複雑な関係性(あるいは「つながり」)が形成されていることを認めること、そして(2)人と人との間のみならず、死者や事物も含めた、物質的・精神的なつながりの存在を指摘するだけにとどまらず、つながりがいかなるものであるのか、それぞれの関係性がどのような意味や価値を持つのか、あるいはどのように変容しつつあるのかを明確にしようとすること、この2点である。そのような関係性の探求は、一方で参加者の一人が述べたように、いかに複雑になろうと現地での徹底した調査によって裏打ちされるべきものである。しかし他方で、研究すること自体が当事者と調査者の間の制度的・倫理的あるいは日常的な関係によって大きく制約を受けてしまいうることもまた事実である。総合討論では、不確実性やリスクが日常化する現状のなかで、いかに問題を切り取り、それに向けて研究を行い、またそこから言葉を発していくかについて、個々の研究者がより深く考えていく必要がある、という意識が共有された。
(文責:木村周平)
日 時:2009年11月20日(金) 16:30~18:00
場 所:吉田キャンパス総合研究2号館4階401教室
発表者:小野真由美(東京大学総合文化研究科博士課程)
発表タイトル:「国際退職移住とロングステイツーリズム:日本人高齢者のマレーシア移住」
コメンテーター:細田尚美(
日 時:2009年11月6日(金) 16:00~
場 所:川端キャンパス東棟1階105
第5回目は、メキシコにおける生物資源探査を記述した民族誌である、 Cori Hayden(著)When Nature Goes Public: The Making and Unmaking of Bioprospecting in Mexico(Princeton UP, 2003)を扱います。キーワードは、生物多様性、先住民の知識、市場(いちば/しじょう)、知的財産権です。
院生の参加も大歓迎です。参加者は可能ならばA4で1枚程度、要約とコメントを書いてお持ちください。なお、この本は東棟101のGCOE研究室にも置いてあります。
また以下はこのあたりの研究を概説した論文ですので、参考までに。中空萌「『所有の主体』生成のプロセスをめぐる人類学的試論―権利から関係性へ」『文化人類学』74巻1号、2009年。
日 時:2009年9月30日(水) 15:15~20:00
場 所:
テーマ:「災害と多文化の共生」
【スケジュール】
15:15 JR鷹取駅(神戸市)集合
15:20 出発(徒歩)
15:30-17:30 たかとりコミュニティセンターの見学 http://www.tcc117.org
*たかとりコミュニティセンターは、1995年の阪神・淡路大震災の際にボランティア活動の拠点となった鷹取教会敷地の「鷹取救援基地」がその前身で、外国籍の住民が全体の10%を占めるという地域にあります。
震災から時間が経過するにつれて、非日常の救援活動の拠点としての役割は、日常的な多文化共生のまちづくりをめざして活動を展開する団体の拠点へと移り変わり、2000年に特定非営利活動法人格を取得して現在の名称に変わりました。
移動
18:00-20:00 「草原恋」
(モンゴル・レストラン、http://www.ehappy-t.jp/shop_info.php?b=b001&shop_id=1002394のなかのゲルにて研究会
【研究会】
話題提供者:思沁夫 (大阪大学GLOCOL)
テーマ:「ゲルという小宇宙:ゲルから考えるモンゴル人の自然観」
話題提供者より:
ゲルはモンゴル人が寒さなどから身を守り、生活を快適に過ごすために設けた唯一の人工的な空間です。ここにはモンゴル人の文化、経験が凝縮されています。ゲルを通じてモンゴル人の自然観を考えることも大変興味深いアプローチと思います。私はゲルの中で育ち、ゲルを通じて多くのモンゴル人の自然認識、自然との関係を学びました。現代化の波の中でゲルは草原から消えつつあります。持続可能な発展という視点からゲルが持つ意味をもう一度考える、またゲルに反映されたモンゴル人の自然観を理解する必要があると思います。ゲルの中でゲルについて話をしようと考えてこのテーマにしました。
【活動の記録】
今回はイニシアティブ4ではじめてのフィールドトリップであり、参加者は田辺、石田、栃堀(ASAFAS)、清水、速水、西、木村(東南研)である。小規模ではあったが「大学から出る」ことの大切さをあらためて思い知らされる、よい機会となった。
最初にお話しをうかがった「たかとりコミュニティセンター」はカトリック鷹取教会の敷地内にある、「コミュニティ放送局FMわぃわぃ」や「多言語センターFACIL」など、複数のNPOのネットワークである。そこではグループ代表の吉富志津代さんに案内していただき、彼女とFMわぃわぃの日比野純一さんのお二人にお話しをうかがい、震災から15年にわたって、様々な問題に直面しながらもそれを乗り越えて続けられる活動について様々な質疑応答がなされた。
この周辺はもともと在日韓国・朝鮮人の方が多く、また仕事を求めて日系ブラジル人などの南米からの人々、そして難民としてやってきたベトナム人など多文化状況があったが、この地区が1995年の阪神淡路大震災で大きな被害を受けると、鷹取教会は、多くの部分が火災で焼けてしまったにもかかわらず、神父を中心に震災復興のひとつの拠点となった。
教会はそれまでの経緯で外国人支援のネットワークの拠点となったが、その一方で、地域とのつながり、地域のまちづくりのことも重要な問題として意識されていた。そして、みな被災者になることで、「地元の人」と「よそ者」の間の垣根が取り払われ、「日本人」「ベトナム人」という抽象的な存在ではなく、〇〇さん、××さんという顔の見える個人の付き合いになったという。そうした地域とのつながりは、活動が1999年ごろに震災から多文化共生をめざしたものへ変化するなかで、より強く意識された。今も、非常事態になると弱者やマイノリティが意識的・無意識的に排除されてしまうことがあるという震災の教訓をもとに、そうした事態が起きないように、常日頃からそうした人びとを「可視化」しておくことを目指しながら活動を続けている。特にラジオを通じた、国籍や民族を越えた、多文化のまちづくり。ただしその際、それぞれの言語、文化を尊重しながら、一方でリスナーたちがいま暮らしている場所である日本の言葉や文化への理解を深めることにも気をつけている。また、こうした活動によって行政も変わってきたし、商店街の人たちも認めてくれたという。日比野さんたちは繰り返し、地域とのつながりが重要であり、それがなければ、閉鎖的になり、乖離してしまう、と指摘した。GCOEメンバーからは感嘆や賞賛の声と共に、自らのフィールドを思い浮かべながら、こうした活動を続けていく地域の潜在力とは何なのか、と問う姿が見られた。
後半の思沁夫さんの発表は、ゲルのなかでゲルを起点にモンゴル人の自然観やコスモロジーについてお話をうかがうという、これまた貴重な経験だった。ゲルの色合いがもつ意味(大地の白と空の青)、各部位の名称と意味、ゲルを使った時間や四季の移り変わりの変化など非常に濃密なものだった。ゲルはモンゴルの遊牧生活と非常に深く結びついており、ゲルは遊牧するモンゴルの人々にとって、神や自然と文化の接点であり、生活を成り立たせるひじょうに根本的な装置である。思さんはそれを「位置と結びつかない場所、流動のなかで場所をつくる」という言い方で表現していたが、現代のグローバル化・流動化のなかで生きる人々について考える際、非常に示唆的な言葉である。
お話は彼の来歴からシベリアでの最近の調査、ロシア文学とエスノグラフィのあり方にまでおよび、フィールドでの体験に基づく深い問いを研究の視座に据えるという姿勢に、一同感銘を受けつつ時間を過ごした。
(文責 木村周平)
日 時:2009年9月26日(土) 15:00~
場 所:総合研究2号館AA415
扱う文献はArun Agrawal著、Environmentality: Technologies Of Government And The Making Of Subjects (Duke UP、2005年)です。
今回はArun Agrawal著Environmentality: Technologies of Government and the Making of Subjects(Duke University Press、2005年)をテキストに読書会を行った。参加者は清水、石坂、宮本、木村(以上東南研)、生方(岡山大)である。
Arun Agrawalはインド出身の政治学者で、ミシガン大学the School of Natural Resources and Environmentの准教授である。北インドのKumaonを対象に、これまで森林の資源管理をめぐるローカルナレッジや国家政策の変容などを論じてきた。研究のスタイルがOstrom流の政治学・ゲーム論からScott流の住民の実践研究へと転じた変わり種である。
本書の中心的な関心は環境の統治化(governmentalization of the environment)の過程、つまり環境統治(environmental government)のテクノロジーの出現と、それとの関わりで人間主体(human subjectivities)がいかに変化したかにある。20世紀初頭、住民は植民地政府の環境統制政策に反発していたが、1930年代以降、人々は環境政策に積極的に関与するようになる。その変化はいかにして生まれたのか。筆者は知識とテクノロジーをもとにした制度の変容、それに伴う実践の変容が、新たな主体形成をもたらしたと考える。
第1部のうち、第2章ではまず、19世紀後半のサーベイと統計等による、インドの森林についての科学的な理解(→人間から切り離された、人間の活動によって危機にさらされる、保護するべき実体としての「自然」)の形成、それにもとづく森林統治体制の形成が論じられる。第3章では20世紀初頭の政府による管理体制の詳細な歴史(森林局と土地税局の争い、森林の意味付けの変化)と住民による激しい抵抗、そして中央集権からの転換が記述される。
第2部では、その後の変容について論じる。第4章は、中央集権が維持するのにコストがかかりすぎるとして、村レベルの森林委員会(forest councils)の設置などの法制度・規制改革によって、森林を住民が自己管理するようになったことが、第5章では、コミュニティレベルでどのように管理がなされているかについての詳細な記述をもとに、「ローカル・コミュニティ内部の制度的・社会的関係性の再編」が、第6章では「環境的主体(environmental subject)の形成」が論じられる。現地でのアンケートをもとに、主体的に環境の監視と保護に取り組んでいる住民たちの存在を統計的に示す(ただし、著者は住民たちが画一的に「環境的主体」となったのではなく、彼らの実践には多様性があり、意識の上でもそうであることを強調している)。第7章の結論では、政治生態学、コモンズ論、環境フェミニズムの先行研究を論じながら、著者の主張が明確にされる。
本書は裏表紙でJames Scottが「国家と社会、構造とエージェンシー、パブリックとプライベートという二項対立を乗り越える新しい分析の領域を切り開いた」と評しているように、人類学・経済学・政治学・歴史学(筆者はとくに政治生態学、コモンズ論、環境フェミニズムに言及している)などが重なり合う領域を、詳細かつ統合的に記述しているという点で、大きな貢献であるといえよう。特に、「環境的主体」という論争的な概念の導入は、本書をきわめて影響力をもちうるものにしている。この概念はScott流の「弱者の抵抗」論に対する明確な反論であり、概念自体の妥当性およびこうした主体が形成される背景について、他の事例を通じてより詳細な検討・議論がなされるべきであろう。
以上のように議論の流れを確認したうえで、様々な議論が展開された。木村と生方は、本書でも示される現代型のソフトな統治について、「環境保護は善である」ことをひとまず受け入れたとき、本書で展開される主体形成を肯定的に捉える(べき)か、否定的に捉える(べき)かの判断はきわめて難しい、という意見を述べた。これに対し、石坂はより本質的な批判を行った。本書で対象となっているKumaon地域の特殊性を指摘し、著者がきわめて議論の枠組みに適合的な地域を選んでいること、そして著者は1920年代と現代を対比し、その間のことをほとんど議論しないままにしているが、実はその間の歴史や変化がきわめて重要で、それ(60年代の中印国境紛争、その後のこの地域の開発と森林伐採、そこからの揺り戻しとしてのチプコ運動、その結果としてのこの地域の産業の未発達と発展の遅れなど)をきちんと踏まえるなら著者が示しているような図式は成立しえないことを示した。つまり、この地域に関しては著者のように予め「環境」という問題をしなければ、全く違う形で実態像が描きうる、ということである。また宮本は、自身の研究に引きつけて、「環境保護」があらゆる行為の免罪符になっている現状に対し、実態をきちんと認識して反論を行っていく必要があると指摘した。以上のように、今回は参加者が少ないながらも充実した議論を行うことができた。
(木村周平)
[tag: イニシアティブ4 環境・制度・STS・人類学に関する勉強会]
日 時:2009年7月13日(月) 14:00~15:30 → 13:00~14:30
場 所:京都大学川端キャンパス共同棟4階セミナー室
報告:
「ライフ・エシックス:バイオエシックスの人類学的転回を目指して」
岩佐光広(国立民族学博物館 研究戦略センター 機関研究員)
要旨:
バイオエシックス(生命倫理学)は、1960年代にアメリカを中心とした英語圏において成立した、医療をめぐる倫理的問題に取り組む学問・実践領域である。現在この領域は、現代医療における不可欠の領域となったが、その一方で1980年代以降、人文学・社会科学からの批判にさらされてもいる。そこでの議論の焦点とは、西洋哲学を応用した普遍主義に基づく抽象的・演繹的なアプローチの問題性であり、社会文化的多様性に配慮した具体的・帰納的なアプローチの重要性である。この流れの中で人類学もまた、通文化的な視点からの研究に少しずつ着手するようになってきたが、バイオエシックスと有機的な形で議論を展開するための理論的展望は必ずしも見えていない。本発表では、ラオス低地農村部における医療民族誌的調査の知見を取り上げながら、バイオエシックスと人類学それぞれのアプローチを比較検討することを通じて、それぞれの問題点を浮き彫りにするとともに、「生(生命/生存/人生/生活)」に着目した新たな議論の地平を見据えてみたい。
日 時:2009年7月7日(火) 16:00~
場 所:東南研東棟105
Nevins, Joseph and Nancy Lee Peluso (eds.) 2008 Taking
Southeast Asia to Market. Cornell UP.を読みます。各章すでに参加希望者に
割り当て済みですが、ご関心のある方はお越しください。
ご質問・ご関心のある方はGCOEの生方(fumi [at] cseas.kyoto-u.ac.jp)あるいは
木村(skimura [at] cseas.kyoto-u.ac.jp)までお問い合わせください。
【活動の記録】
第3回目となる今回の勉強会では、Joseph Nevins & Nancy L. Peluso(編)Taking Southeast Asia to Market: Commodities, Nature, and People in the Neoliberal Age(Ithaca: Cornell University Press、2008年)を取り上げた。研究会ではまずメンバーの生方(CSEAS)が本書を取り上げた趣旨を説明し、それに引き続き、イントロダクションから結論までの各章を、あらかじめ割り当てていた分担に従ってメンバーが要約し、それぞれ15分~30分程度、内容について議論した。本書はイントロダクションと結論を合わせて14章構成であり、メンバーの佐久間、秋山(ASAFAS)、内藤(CIAS)、宮本、生方、木村(CSEAS)がそれぞれ2章程度担当した。
本書は東南アジアにおける、とりわけ現代的な現象としての「商品化」(筆者たちは「ネオリベラリズムの時代における労働と『自然』の商品化」という言葉遣いをする)やグローバルな商品連鎖に焦点を当て、インドネシアの木材やコーヒー・海産物、ベトナムの女性労働者、マレーシアのバイオテクノロジー、ラオスの森林プランテーションとパルプ生産、タイ南部でのサトウキビとエビ養殖、など様々な題材を扱ったものである。議論は、各章の内容をメンバー個々の関心(農林産物の認証、有機農業、資源管理など)に引きつけながら進められたが、メンバーの共通した感想として、編者たちが強調している「ネオリベラリズム」が何を指しているのかが曖昧であり、各章の内容が拡散している、ということがあった。こうした問題点について、本書のもとになった、カリフォルニア大学バークレー校東南アジア研究センターで2005年に行われた”Producing People and Nature as Commodities in Southeast Asia”というシンポジウムに参加していた石川(CSEAS)から状況やその後の出版プロセスを聞けたことは、議論を進めるうえで大いに役立った。
また今後の予定として、次回9月にArun Agrawal著Environmentality(Duke UP、2005年)、10月にCori Hayden著When Nature Goes Public(Princeton UP、2003年)を取り上げることを確認した。
(木村周平)
[tag: イニシアティブ4 環境・制度・STS・人類学に関する勉強会]
日 時:2009年6月30日(火) 16:00~
場 所:東南研東棟105
Tsing, Anna(2005)Friction: An Ethnography of Global
Connection.Princeton UP.
参加者はA4で1枚程度、要約とコメントを書いてお持ちください。
詳細は木村(skimuracseas.kyoto-u.ac.jp)まで
【活動の記録】
今回はAnna L. Tsing著Friction: An Ethnography of Global Connection(Princeton University Press、2005年)を読み、出席者がもちよったペーパーをもとに内容の検討と議論を行った。なお、出席者は秋山、加藤(以上ASAFAS)、内藤(CIAS)、生方、清水、宮本、石川、木村(CSEAS)である。
著者のAnna Tsingはカリフォルニア大学サンタクルス校の教授、主にカリマンタンで調査をしてきた人類学者であり、前作In the realm of the diamond queenも本作も、民族誌としての評価はきわめて高い。本書はフィールドワークを通じて著者が出会った事例やエピソードに対してきわめてたくみに位置づけを与え、そこから、抽象的な社会学理論などとはまったく異なる、肉付けされた厚みのある議論を展開していく点はきわめて印象的である。
本書は3部7章構成で、各章の前に導入的なエピソードや議論が短めの章として挟み込まれており、各章の冒頭には章の内容に関連する単語がつけられている。イントロダクションで問題にされるのは、「普遍的なるもの」(the universal)にいかに取り組むのか、という問題である。資本主義のシステムであれ、科学的知識であれ、あるいは人権や発展(開発)のような概念であれ、「普遍的なるもの」は現代の世界においてきわめて中心的な位置を占めており、地域を越える普遍的なる知識が、グローバルな新自由主義レジームを様々な地域に押しつけると同時に、それに抗しようという動きも支える。著者が本書で取り組むのは、以上のようなものとしてglobal connectionsを位置づけ、民族誌的に捉え直すことであり、そのためにローカル、ナショナル、グローバルに展開する知識や制度、協働の間で生じるフリクション(これは後の章でギャップとも呼ばれる)に注目する。報告者にとっては特に、第1章で示される「サルベージ・フロンティア」という概念、第2章で検討される、リージョナル/ナショナル/グローバルのスケール形成の「偶発的な分節化(contingent articulation)」、第5章の後半の「コミュニティ」批判、第6章の環境運動にまつわる寓話の「翻訳」などが興味深かった。
議論においてはインドネシアの森林をめぐる制度史的な問題や、経済学のアプローチとの比較における「資源化」「商品化」プロセスの重要性などが話題になったが、もっとも議論が白熱したのは著者も多用する「コンティンジェンシー」というものの向こう側である。従来、自然科学であれ社会科学であれ、偶然や状況依存性、あるいは現象の複雑さのようなものは解明すべき出発点であり、結論ではなかった。しかし近年、こうした概念が積極的に評価されるようになっている。これは学問の限界ではないのか。この先にはどのようなことが可能なのか。さらにこうした概念を多用するようになっている現代の人類学にはどのような未来がありうるのか、という問題まで含めて、様々な意見が交わされた。
(木村周平)
[tag: イニシアティブ4 環境・制度・STS・人類学に関する勉強会]
日 時:2009年6月2日(火)
場 所:東南研東棟105
Tsing, Anna(2005)Friction: An Ethnography of Global
Connection.Princeton UP. 輪読
詳細は木村(skimuracseas.kyoto-u.ac.jp)まで
【活動の記録】
今回はAnna L. Tsing著Friction: An Ethnography of Global Connection(Princeton University Press、2005年)の前半部分を木村のペーパーをもとに議論し、また今後の計画について話し合った。参加者は秋山、加藤、佐久間(以上ASAFAS)、内藤(CIAS)、生方、宮本、木村(CSEAS)である。
議論は特に第2章The Economy of Appearancesに焦点があたった。この章は東南アジアを襲った通貨危機の直前に国際的な金融業界をにぎわせた、カリマンタンでの巨大金鉱発見のニュース(のちに実は全くの嘘であったことが分かる)の顛末が記述されている。それを通じて筆者は、金融経済がそうした、フロンティアをめぐるある種の幻影(見せかけの経済The economy of appearance)と共にあることを論じている。さらに、この出来事を通じて、地域/国家/グローバルなスケールが分節化されていく様子も描き出されており、これはG-COEのほかの研究会でもよく挙がる「地域とは何か」という問いに対する答えを考える上でも示唆的である。
また、今後の計画としては、J. Nevins and N. L. Peluso(編)Taking Southeast Asia to Market(Cornell UP、2008年)やKim Fortun著、Advocacy after Bhopal: Environmentalism, Disaster, New Global Orders(Chicago UP、2001年)、S. Jasanoff, and M. L. Martello(編)Earthly Politics: Local and Global in Environmental Governance(MIT Press、2004年)、B. Latour, Bruno著、Politics of Nature: How to Bring the Sciences into Democracy(Harvard UP、2004年)などが候補に挙がった。
(木村周平)
[tag: イニシアティブ4 環境・制度・STS・人類学に関する勉強会]
日 時:2009年6月1日(月) 16:30~18:30
場 所:京都大学川端キャンパス稲森財団記念館3階小会議室Ⅰ
※稲森財団記念館は、川端通沿い(近衛通角)にあります。
http://www.kyoto-u.ac.jp/ja/access/campus/map6r_b.htm
要旨:
南アジア地域で広く知られている慣行では、不妊であることはある種の「異常事態」だとみなされ、憐憫の対象になると同時に、邪視・呪術との関与に対する嫌疑がかけられたり、吉祥な儀礼や行事からの社会的排除が行われたりすることが多い。特に婚姻ののち長い年月がたっても妊娠しない女性にとっては、不妊であることは、離婚や別居、夫の複婚といった婚姻関係の再編制を促す契機ともなりうるものである。ここでの問題は、不妊という現象が、共同性を帯びたものであり、個人をある特定のつながりから排除したり、あるいは、ある特定の仕方でのみ世界とつながるようにさせる力学が働いているということである。本発表では、インド・マハーラーシュトラ州村落における不妊を事例として、生存基盤としてのつながりについて考察する。具体的には、発表者の調査地において不妊と深く関わる「月経」と「流産」をめぐる人々の語りと実践を検討する。それにより、村落社会の規範的なライフコースからは逸脱する周縁者としての不妊女性が、婚家や近隣社会において、いかにして「つながり」を模索しようとするのか、また、自己と世界との間でどのように微細な調律(チューニング・アップ)を試みるのか、ということを論じるものである。
報告2「社会化と社会変容―クン・サンにおける子どもの歌/踊り活動の分析から」
高田明(京都大学アジア・アフリカ地域研究研究科准教授)
要旨:
今回の発表では,子どもの社会化と社会変容がどのようにして両立しうるのかを考えたい.南部アフリカの先住民として知られるクン・サンでは,多年齢からなる子ども集団が子どもの社会化に重要な働きを担っている.近年では定住化の影響で離乳が早まり,1,2歳児もふだん共住する年長児にケアされながら子ども集団の活動に参加するようになっている.子ども集団の活動においては,歌/踊りがとりわけ重要である.歌/踊りの音楽性に助けられて,1,2歳児も集団活動に参加することができる.歌/踊りでは,可視的な他民族や大人の文化が創造力の源となっている.一方でこれらの活動はたいてい他民族や大人の監視の外で行われている.このため,年長児が活動のイニシアティブをとることが可能になっている.クン・サンにおけるこうした子ども集団活動は,社会変化を推進し,さらには社会を再統合する力を持っている.
日 時:2009年5月26日(火) 15:00-17:00
場 所:京都大学川端キャンパス、東南アジア研究所等共同棟4階会議室
http://www.asafas.kyoto-u.ac.jp/about/access.html
日 時:2009年1月23-25日
場 所:KKRホテルびわこ http://www.kkrbiwako.com/index.htm
シンポ:生存を支える「地域/社会」の再編成
【要旨】
市場経済化やグローバル化のなかで、われわれの生存を支える「地域/社会」は大きな変容を迫られている。ローカル・コミュニティや地域社会、国家、国際社会、さまざまな「社会的なもの」がひとびとの生活世界に関与する時代にあって、生存の基盤となるべき「地域/社会」をどのようなものとして把握/構想できるのか。若手の地域研究者の事例報告をもとに議論する。
【プログラム】
1月23日(金)
15:00-15:20 シンポ趣旨説明
◇セッション1 市場経済化と空間の再編成
15:20-16:00 西垣有(阪大) 「公共空間をつくる―ポスト社会主義期、モンゴル・ウランバートル市の事例から」
16:00-16:40 細田尚美(東南ア研) 「移動と交歓―フィリピン向都移民の民族誌」
16:40-16:50 休憩
16:50-17:50 コメント・討論1
18:00-19:30 夕食
19:30-22:00 シンポ参加者の研究紹介1
1月24日(土)
◇セッション2 生存を支える生業/生態環境の動態
9:00-9:40 長倉美予(ASAFAS) 「レソト山岳地の生業とその変遷」
9:40-10:20 鈴木 玲治(生存研ユニット・東南ア研)「ミャンマー・カレンの営む焼畑土地利用の履歴と森林植生の長期的変化」
10:20-10:30 休憩
10:30-11:30 コメント・討論2
11:30-13:00 昼食休憩
◇セッション3 宗教のダイナミズムと地域社会の変容
13:00-13:40 小河久志(総研大) 「「正しいイスラーム」をめぐるポリティクス:タイ南部インド洋津波被災地における宗教実践の変容を事例に」
13:40-14:20 池田昭光(都立大) 「レバノン内戦の記憶に関する予備的考察:宗派という視点」
14:20-15:20 コメント・討論3
15:20-15:40 休憩
◇セッション4 紛争のなかの生存基盤
15:40-16:20 佐川徹(ASAFAS) 「暴力と歓待の境界:東アフリカ牧畜民による可傷性への対処」
16:20-17:00 久保忠行(神戸大) 「ビルマ:紛争の現代的特徴と難民キャンプの生活世界」
17:00-18:00 コメント・討論4
18:00-19:30 夕食
19:30-22:00 シンポ参加者の研究紹介2
1月25日(日)
◇セッション5 国家の福祉政策と生活世界
9:30-10:10 山北輝裕(関学) 「野宿者にとって<地域福祉>とはなにか」
10:10-10:50 倉田誠(神戸大) 「住民の末端化/主体化の力学:小規模国家サモアにおける保健医療サービスの展開から」
10:50-11:00 休憩
11:00-12:00 コメント・討論5
12:00-13:00 昼食休憩
13:00-14:30 総合討論
【活動の記録】
本シンポジウムでは、人類学や地域研究を中心に40名程度の若手研究者が集まり、3日間にわたって、5つのセッションで10の研究発表が行われ、現代社会における地域/社会のあり方の変化に対応するような新しい研究のあり方を目指して、インテンシブな議論が展開された。セッションや懇親会などでの議論を通じて、多様な地域・テーマを扱う研究者が集まりつつも、それを貫いて、まさに「同時代性」とでも言うべき、相互に共有できる状況や問題にそれぞれの研究者が直面していることが明らかになった。
初日のセッション1「市場経済化と空間の再編成」では、西垣が急激な市場経済化が進められたモンゴルのウランバートル市における遊牧民のゲル地区の形成とそこでのNGOの活動の相互作用から公共空間が再生していることを指摘し、細田は、フィリピンの農村から都市への移住の経験と呪術世界の変容の関係を示した。討論では、市場経済化があらたな社会空間を生み出している現代的状況について議論が交わされた。
2日目のセッション2「生存を支える生業/生態環境の動態」では、長倉がレソト山岳民を対象に、出稼ぎブームの前後の社会変化と彼らの高度差を利用した土地利用との関係を実証的に示し、鈴木がミャンマーの焼畑農耕民が暮らす森林植生の長期変化と近年の政策の影響を指摘した。この二つの報告をもとに、生態環境の動態をいかに政治的な状況との関連のなかに位置づけるか、議論が行われた。そしてセッション3「宗教のダイナミズムと地域社会の変容」では、小河がタイのイスラーム復興運動が地域社会にもたらした軋轢や葛藤を示し、池田はレバノン内戦という文脈における宗教と宗派というカテゴリーをめぐる考察を提示した。セッション4「紛争のなかの生存基盤」では、佐川がエチオピアの牧畜民の戦いと歓待というふたつのモードの転換が戦いの集団性と個人間の社会関係の構築とのあいだで生じていることを論じ、久保がビルマの難民キャンプで繰り広げられるさまざまな援助活動の実態と複数の対立的なアイデンティティの状況について、興味深い議論を展開した。最終日のセッション5「国家の福祉政策と生活世界」では、山北が日本の野宿者を含みこむようなコミュニティ=地域の「福祉」の可能性について議論を展開し、倉田はサモアの保健医療サービスの構築過程が植民者・国家行政・住民の相互作用のなかで展開してきたことを示した。
最終日の午後に行われた総合討論では、地域研究が置かれている現代的な状況をふまえ、調査者とローカル社会の価値との倫理的対立をどう乗り越え、それをいかに実践につなげていけるのか、議論を行った。
本シンポジウムからは議論の成果として合計8本のワーキングペーパーが生み出されたが、それに加えて関西圏を中心とした若手研究者のネットワークが構築されたという点からも、きわめて実り多いものになったといえる。
(松村圭一郎・木村周平)
日 時:2009年1月20日(火)14:00-16:00
場 所:京都大学川端キャンパス稲森財団記念館3階小会議室(331号室)
※稲森財団記念館は、川端通沿い(近衛通角)にあります。
http://www.kyoto-u.ac.jp/ja/access/campus/map6r_b.htm
報告者:
報告1「災害から見る生存基盤のネットワーク(仮)」
木村周平(京都大学GCOE助教)
「生存基盤」とは、折り重なる圏(spheres)を横断して広がる、ひとを取り巻く事物や環境とのつながりのことである。科学技術の発展、社会の複雑化や時間-空間の圧縮など、現在進みつつある急激な人間圏の再編のなかで、そうした生存基盤としての<つながり>のあり方はどのように変容し、またいま現に形成されつつあるのだろうか。本発表ではこの問題を、トルコ・イスタンブルとその周辺地域に焦点を当て、地震や火災などの生存基盤を脅かす諸問題への対応の事例をつうじて考えたい。
報告2「ウイルスと民主主義:エチオピアのグラゲ県住民によるHIV/AIDSへの取り組みの経験」
西真如(京都大学GCOE研究員)
「デモクラシー」と「サスティナビリティ」という二つの概念は、多くの局面で相対立するように見える。とりわけHIV/AIDSは、両者の対立が顕在化するフィールドである。持続的な社会は、ウイルスを排除することで可能になる(ように思われる)が、それに対して民主的な社会は、ウイルスとともに生きる人びとを受け入れるように要求する。近年では医療技術の進歩によって、個々の人間はHIVとともに数十年も生きることが可能になった。人間の社会は、持続的でしかも民主的な方法で「ウイルスとともに生きる」ことができるのだろうか?エチオピアのグラゲ県住民によるHIV/AIDSへの取り組みの事例から考えたい。
発表と議論の内容:
両発表に対して、出席者からは多くの課題が示された。
まず、イスタンブルの歴史をたどりながら人間圏と地球圏のつながりについて考察するという木村発表に対しては、発表時間が限られていることを考慮し、話の道筋をよりシンプルかつ具体的にするべきだという意見が示された。特に住民組織の事例においては、数字や組織構造などをもう少し明確に示さなければ聞き手には理解することが困難である、というコメントがあった。それに加えて、多用される「つながり」という言葉についてはもう少し吟味する必要があること、また日本でトルコの震災の事例を話すときには、やはり日本の事例との距離についてきちんと考えたうえで話す必要があること、などの意見が出た。また、方向性として、(1)科学とは異なる(ずれる)知識のあり方が現実的には必要であるし、実際に広まっているという現状、(2)地球圏のメカニズムに人も乗っかることで、人びとのつながりも豊かになるという主張、をより明確にするべきではという提案があった。
つぎに西発表に対しては、発表中で示されたHIV/AIDSに対する「個人アプローチ」と「リスク・アプローチ」との対比が、報告の主題である民主主義の問題とどう関係するのかわかりにくいというコメントがあった。加えて、HIV/AIDSに対する地域住民の取り組みとして示されたふたつの事例(結婚前検査運動と「となりの庭畑を耕す」運動)が、それぞれ「個人アプローチ」と「リスク・アプローチ」のいずれに該当するのかを明確にすべきだというコメントがあった。加えて、民主主義と持続性の問題を取り扱うのであれば、陽性者の生計を支持することの必要性を訴えるだけでは不十分であり、HIV/AIDSの問題に対して誰がどのような責任を負うのか、さらにはどのような政策ないし制度を提案するのかを明確にしなければならないという意見が述べられた。
日 時:2008年12月20日(土) 14:00~18:00
場 所:京都大学稲盛財団記念館3階稲盛記念ホール(京都大学東南アジア研究所内)
会場までの道のりは、以下のアクセス・マップをご覧下さい。
アクセスマップ:http://www.cseas.kyoto-u.ac.jp/about/access_ja.html
【共催】
日本文化人類学会近畿地区研究会、京都大学東南アジア研究所G-COEプログラム「生存基盤持続型の発展を目指す地域研究拠点」イニシアティブ4
【タイトル】
学生運動と人類学―全共闘世代の人類学者に聞く―
【シンポジウムの趣旨】
全共闘運動に代表される60年代末の学生運動の時代から、既に40年が経過しようとしている。世界大の規模で生じた運動は、当時の社会状況のなかで生まれると同時に状況を動かし、人文・社会科学の学問分野における思想的な転換を導いたといわれている。しかし、日本の人類学史を振り返ってみると、この時代が人類学の研究や思想にどのような影響を及ぼしたのか、これまでほとんど検討されてこなかった。60年代末に人類学を志した人たちは、この時代をどのように生き、状況と関与したのか、そしてまた、その経験は後の思想形成にどのような影響を及ぼしたのか。本ミニ・シンポジウムでは、全共闘の時代を生きた人類学者からの報告をもとに、学生運動と人類学者との関わり、さらに日本の人類学的知の系譜を辿る。
【プログラム】
2:00 趣旨説明
2:10 菅原和孝(京都大学大学院人間.環境学研究科)
「儀礼的暴力と自己言及の言説 — 大学闘争と人類学の現在 — 」
3:10 休憩
3:15 船曳建夫(東京大学大学院総合文化研究科)
「全共闘のころを懐かしむ」
4:15 休憩
4:30 コメント 小田昌教(中央大学文学部)
4:50 コメント 太田心平(国立民族学博物館先端人類科学研究部)
5:10 総合討論
6:00 懇親会
【趣旨】
◇菅原和孝(京都大学大学院人間.環境学研究科)
「儀礼的暴力と自己言及の言説 — 大学闘争と人類学の現在 — 」
この発表は、全共闘運動のクロニクルを回顧的に跡づけるものではない。私には逮捕歴もゲバルトの経験もないので、実践者の視点から運動の意味を論じる資格はない。「心情全共闘」として運動の周辺にいた青年期の自分にとって、あの歴史的出来事は何であったのか。それを私に痕跡を残した言説(と少数の逸話)を手がかりにして再考したい。出発点として、叛乱へのヴァルネラビリティの個人差を指摘する。叛乱の前夜に伏流していた吉本隆明、大江健三郎、高橋和巳といった知識人の思考にも注目する。さらに、闘争の本質は、<儀礼的暴力の開示>と<知の自己言及>にあったという論を展開する。ただし、実践者はそれを「まじめな暴力」として追求せざるをえなかったことを強調する。出来事の神話化を拒み、「始まりも終わりもない」闘いを「今ここ」の場で直示する必要がある。メルロ=ポンティの「自由」論をヒントにして、身体性に基盤を置いた「革命」の可能性を、青年期の聴衆と共に考えてみたい。
◇船曳建夫(東京大学大学院総合文化研究科)
「全共闘のころを懐かしむ」
こんなテーマ、「学生運動と人類学」が成立するのかな、と思いながらもお引き受けしたのは、無理なお題で頭をひねるのは、大喜利の落語家ならずとも、よい試練になると思ったからです。さて自分のことを語るか、他の人たちについて語るか、昔話を中心とするか、現在に焦点をおいて論ずるか、と、考え、自分の、それも昔の自慢話を披露しようと思いました。
それは、偉人たちの事跡ではなく、名もなき庶民の暮らしに目を向ける歴史学が盛んであることを思うと、私のささやかでノスタルジックな、それでいてかなり、大小の有名人が出てくる一つ話の繰り言が、本人の過剰な自意識の深いところで、無意識の証言たり得ると考えたからです。しかし、そのためには、聞き手の力量に負うところが大きいのです。鼻白むのではなく、「ふっふっふ」と余裕の態度で、「それで何?」などと言わずに、「ということは、こうでもあったとは思いませんか?」と、批判していただきたいと思います。お願いまで。
【備考】
*事前の参加予約は必要ありません。
*当日は、資料代として200円をいただきます。
*京都人類学研究会は、京都を中心とする関西の人類学および関連分野に関心をもつ大学院生・研究者がその研究成果を報告する場です。どなたでも自由に参加いただけます。
細田尚美(12月季節例会担当)
清水展(京都人類学研究会代表)
全共闘運動に代表される60年代末の学生運動の時代から、既に40年が経過しようとしている。世界大の規模で生じた運動は、当時の社会状況のなかで生まれると同時に状況を動かし、人文・社会科学の学問分野における思想的な転換を導いたといわれている。しかし、日本の人類学史を振り返ってみると、この時代が人類学の研究や思想にどのような影響を及ぼしたのか、これまでほとんど検討されてこなかった。60年代末に人類学を志した人たちは、この時代をどのように生き、状況と関与したのか、そしてまた、その経験は後の思想形成にどのような影響を及ぼしたのか。本シンポジウムでは、全共闘の時代を生きた人類学者2名の報告をもとに、当時の学生運動について論じるとともに、学生運動と人類学者との関わりについて検討することを試みた。菅原和孝、船曳建夫両氏は、個人的な視点からと断りながらも当時の状況について詳細に述べ、それらと現代思想との関係についての意見を述べた。両氏の報告後、小田マサノリ氏は現在のアクティヴィズムと人類学の関わりなどについて、太田心平氏は韓国の元労働運動家の人たちの懐古との比較の視点からコメントした。
日 時:12月13日(土)14:00-17:00
場 所:京都大学川端キャンパス稲森財団記念館3階中会議室
※稲森財団記念館は、川端通沿い(近衛通角)にあります。
http://www.kyoto-u.ac.jp/ja/access/campus/map6r_b.htm
日 時:12月3日(水)18:00~20:00
場 所:京都大学吉田キャンパス総合研究2号館(旧工学部4号館)4階会議室(AA447号室)
http://www.asafas.kyoto-u.ac.jp/kias/contents/tariqa_ws/access_map.pdf
主催: 京都大学イスラーム地域研究センター(KIAS);
京都大学G-COE「生存基盤持続型の発展を目指す地域研究拠点」イニシアティブ1/4
プログラム
発表1
「持続型生存基盤パラダイムの創成ー環境・政治・経済を総合する新しいアジア研究ー」
杉原薫(京都大学東南アジア研究所教授)
発表2
「発展するイスラーム地域研究の地平:ネットワーク型研究拠点形成と大学院教育」
小杉泰(京都大学イスラーム地域研究センター長)
発表3
「躍動するインドの新しい姿と南アジア研究の今後」
田辺明生(京都大学人文科学研究所准教授)
発表4
「スーフィズム/タリーカ研究における文献研究とフィールドワークの技法」
東長靖(京都大学アジア・アフリカ地域研究研究科准教授)
総括討論
司会 藤倉達郎(京都大学アジア・アフリカ地域研究研究科准教授)
詳しくは、http://www.asafas.kyoto-u.ac.jp/kias/contents/meeting.htmlをご覧ください。
【活動の記録】
はじめに「持続型生存基盤論講座」を代表し、杉原薫氏が発表を行った。発表者はまず、グローバル化の進展やアジア・アフリカ地域の発展が進んでいる今日、もはや温帯を中心とした従来のパラダイムでは世界を捉え切れない。それゆえ、パラダイムの基盤を従来の温帯中心から熱帯中心へ、そして土地所有や国境に見られる「地表」から人間生活に影響を及ぼす空間全体を研究対象にする「生存圏」へとシフトしていくことが求められると述べた。
次に「イスラーム世界論講座」を代表し、小杉泰氏が発表を行った。発表者は10年間の ASAFASでの大学院教育を振り返り、現代における地域の特性や独自性を論じる「地域研究」という学問領域が徐々に浸透している点を紹介した。さらに近年のASAFASやKIAS(京都大学イスラーム地域研究センター)の活動から、世界を主導する研究の推進や若手研究者の研究を推進する基盤が徐々に整備されてきていると指摘した。来年度からの「グローバル地域研究専攻」は、地域研究の発展にさらに寄与するものであると発表者は締めくくった。 次に「南アジア・インド洋世界論講座」を代表し、田辺明生氏が発表を行った。発表者はまず、現代の南アジアが置かれた状況を、インドを中心に政治・経済・社会に関するさまざまな統計データを用いて紹介した。そこから、南アジアが今日、政治・経済・社会・思想が密接に関わり合う形で躍動し、今後の世界のなかで極めて重要な役割をはたすようになると述べた。その上で、研究の分野でも世界全体に寄与するさまざまな有益な研究を南アジアは提供してくれる点を指摘し、今後の南アジア研究の可能性を発表者は具体的な事例を示しながら紹介して締めくくった。
最後に文献研究の立場を代表し、東長靖氏が発表を行った。本発表は思想研究を専門とする発表者が10年間行ってきた大学院での指導を振り返り、地域研究における文献研究とフィールド研究の架橋の可能性について述べた。そこでは、将来の地域研究者はフィールドワークに特化するだけでは不十分であり、逆に文献に特化するだけでも不十分である。両者を「またぐ」ことが理想の地域研究者であることを、具体的な逸話や資料を紹介しながら述べていった。
それぞれの発表後、各自の発表者に対しての質問や、これからの地域研究のあり方について、違った地域や視点から多様な質問が出された。これらの議論は、今後の地域研究への期待で満ち溢れるものであった。
安田 慎(京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科)
日 時:2008年11月14日(金) 16:30~18:00
場 所:京都大学本部キャンパス 総合研究2号館4階 A447会議室
報告者:松村圭一郎(京都大学人間・環境学研究科助教)
タイトル:生存を支える地域/社会の再編成-ザンビア南部州における食糧援助の事例から
報告要旨:
市場経済の拡大やグローバル化のなかで、アフリカの農村社会においても、人びとの生存を支える「地域/社会」は再編の過程にある。本発表では、政府や国際機関、NGOなど、さまざまな組織が関与して実施されているザンビアの食糧援助体制について報告する。旱魃や洪水といった災害への緊急対応としての食糧援助が、どのような制度として設計されているのか。そして、それがいかに実施され、どう受容されているのか。ザンビア南部州・シナゾングウェ地区の事例をもとに、人びとの生存を支える地域/社会が、多様なアクターの関与する場として再編成されていることを示し、生存基盤としての「地域」をどう理解したらよいのか考察する。
日 時:2008年11月4日(火) 11:00~17:00
場 所:総合研究棟2号館(旧工学部4号館)4階会議室(AA447)
場所変更→京都大学本部キャンパス人文科学研究所本館(新館、旧工学部5号館)4階大会議室
タイトル:『生のつながりへの想像力:再生産再考』
プログラム
11:00-11:20 趣旨説明 速水洋子(京都大学)
11:20-12:05 宇田川妙子(国立民族学博物館)
「人の断片化か、新たな関係性か:イタリアの生殖技術論争の事例から 」
12:05-12:50 砂川秀樹(実践女子大学)
「同性愛者のパートナーシップと家族、次世代への継承」
12:50-14:00 昼食(大文字部屋)
14:00-14:45 工藤正子(東京大学)
「国際結婚にみる「つながり」の形成―パキスタン人移住労働者と結婚した日本人女性たちの事例から―」
14:45-15:30 鈴木七美(国立民族学博物館)
「次世代コミュニティ・デザイン
‐ケア・教育をめぐるオルタナティブ思想・実践から考える‐」
15:30-15:45 休憩
15:45-16:15 コメント
椎野若菜(東京外国語大学)
田中雅一〈京都大学〉
16:15-17:00 総合討論
趣旨説明
「再生産」は「生物学的」再生産としての生殖に関わるものから、経済学的には物質的財の継続的生産・分配・消費、労働力の再生産、そして社会システムや文化的再生産まで、ディシプリンによって大きく異なる問題系に含まれ、それゆえに曖昧な概念です。また、近代システムにおけるジェンダー役割を論じる中で再生産を生産と対置させる議論が進められました。こうした文脈に抗して、より統合的に再生産を考え、私たちの生の様々なあり方の継承を持続型生存基盤のパラダイムに向けた議論として意味あるものとするために「生のつながり」について考えたいと思います。生殖を出発点としながら、人が次世代へと生のあり方全体をどのように継承し存続させていこうとするか、という観点から再生産を再考していきます。人から人へ生のあり方を継承していくこと、そこには遺伝子や「血」の論理という生殖そのものをイメージした「生物学的な」継承、モノを介した経済的継承、および社会システム、価値や文化的・象徴論的な継承、あるいは、身体的実践そのものの継承などがあります。
彼方の社会の社会システムの持続と継承を考える上で、かつて人類学では「親族」という問題領域が重視されました。しかし、他社会の「親族」を理解する枠組が常に自社会の諸前提を脱し切れていないと気づいたことから、この領域への関心は失われました。近年、新たな様相で活発化する親族研究の展開の中で、「関係性」(relatedness)、あるいはその関係をつなぐモノに注目し、親族・家族の関係における社会的なものと生物学的なものの所与の分別、生殖技術と知識や価値の相互関係の動態、カテゴリーの普遍化や固定化された既存の社会単位・概念・組織原理の再考がなされています。旧来の親族理論がいわゆる「彼方の他者」を対象としてきたのに対して、研究者自身の足元にある親族に関わる観念と、彼方の他者のものとを同じ俎上に乗せて議論することで、私たち自身の生の継承を「彼ら」の生の継承と相互参照させながら、ディシプリンを超えてより豊かに想像することを目指したいと思います。
ここでは『親族』や『再生産』を「生のつながり(関係性)」という視点から再考し、現代社会における「生のつながり」とは何かを考えていきます。次世代への継承、時間の流れの中での生のつながりを考える契機として、新生殖医療、国際結婚、同性愛家族などを取り上げます。また、時間的には「逆行」するようですが、高齢者と介護の問題は、子にとっての親を見ることで、生のつながりを逆の視点から見るトピックとなります。その流れの中で、特に、新生殖技術、移動と流動、グローバル化する社会にあって人としていかに何を継承し、文化的に、「生のつながり」を実現していくかを、自他の社会の中で考えたいと思います。 〈速水洋子〉
宇田川妙子(国立民族学博物館)
「人の断片化か、新たな関係性か:イタリアの生殖技術論争の事例から」
イタリアでは2004年、生殖補助医療法が成立し、翌年には改正を求めた国民投票が不成立になったが、その前後から、生殖技術をめぐる論点は 「家族」から「生命」に変わりつつある。しかも現在では、生殖技術よりも中絶や安楽死が論争の中心になっており、ここでもキーワードは「生命」である。生 殖技術は家族・親族関係に新たな頁を拓きうると言われたが、少なくともイタリアの法制化をめぐっては、新たな家族・親族関係の萌芽や内省よりも、性や生殖 に関してきわめて近代主義的でテクノ化された議論が繰り広げられ、いわゆる「生-権力」が剥き出しになった。その一極が「生命」言説であり、そこには社会 関係および人の「断片化」も見てとれる。ただしこれは、狭義の政治の場における議論であって、人々の日常と多少乖離しており、「生-権力」自体も多元的で はある。本発表では、この「生命」言説が、いかに彼らの家族・親族を含めた社会関係(の変容)と関連しているのか、そこで交渉されているのは何なのか、そ の一端を考えてみたい。
砂川秀樹〈実践女子大学〉
「同性愛者のパートナーシップと家族、次世代への継承」
近年、西欧や北米だけでなく、中南米地域などでも同性間のパートナーシップを法的に認める動きが広がりつつある。しかし、そのことを織り込んだ家族論は極めて少ない。また、米国などではレズビアンカップルが人工授精により出産をおこなったりすることも、ますます増えている。親族研究に蓄積のある人類学はそれをどのように取り込んでいくのか、大きな課題となりつつある。また日本では、同性カップルを法的に保護する制度はなく、時に成人同士の養子縁組がその代わりとして用いられてきた。法的保護がないこと、養子縁組をその代わりとすることが、どのように日本の同性愛者の関係性構築に影響を与えてきたのかについて、欧米の研究を参考にしながら 考えてみたい。
工藤正子(東京大学)
「国際結婚にみる「つながり」の形成―パキスタン人移住労働者と結婚した日本人女性たちの事例から―」
現代日本の家族の変容をみたときに、特徴のひとつとして挙げられるのが、1980年代以降の「国際結婚」の増加である。とくに、日本人女性と外国人男性の組み合わせに関しては、相手の国籍の多様化が顕著であり、その背景には、同年代に急増した外国人労働者との結婚増加があると推測される。本発表は、こうした結婚のなかで、パキスタン人ムスリム男性と結婚をした日本人女性たちの経験に焦点をあて、彼女たちのトランスナショナルな生活世界のなかで、「家族」がいかに構築されるのかを考察する。
発表者は1990年代末より、関東圏でこれらの女性たちに聞き取り調査を行ってきた。こうした家族において、現在、傾向としてみられるのが、移動労働者であった夫が日本でビジネスをつづけ、日本人女性は子どもをつれてパキスタンに移住する、という国境を越えた家族の分散である。発表では、こうした「家族」が形成される背景にある複合要因を検討したうえで、分散しつつも、つながり合う「家族」のなかに、出稼ぎ労働者である夫たちと、彼らと結婚をした日本人女性たちそれぞれの「つながり」に対する想像力や期待がいかにせめぎあい、次世代に向けて形成されつつあるのかを考察したい。
鈴木七美(国立民族学博物館)
「次世代コミュニティ・デザイン‐ケア・教育をめぐるオルタナティブ思想・実践から考える‐」
少子高齢・多文化化という社会状況のもとで、子どもの誕生・登場・育成や高齢者ケアをめぐるオルタナティブが活発に提示されてきた。次世代育成あるいはライフステージの渡りに関わる多様な実践は、ローカルなコミュニティ・デザインに関するアイディアの表現と議論の時空間を創出することでもある。本報告では、ケアや教育に関わる施設の展開に次世代コミュニティ・デザインがどのように表現されているのかを考えてみたい。(参考:2008『少子化社会におけるライフデザインの実践と議論に関する文化比較の医療歴史人類学研究』平成17~平成19年度科学研究費補助金(基盤研究(C))研究成果報告書;2008「『新しい家族』を求めて‐デンマーク・フランス・スイスの国際養子縁組の現状‐」平成16年度~平成19年度科学研究補助金(海外学術調査)基盤研究(A)『新生殖医療に起因する国境を越えた社会・文化的諸問題の実証的研究』調査報告書、pp. 251-263;2008[1997]『出産の歴史人類学』;2007「デンマークの福祉における余暇の思想」『人間学研究』)
本シンポジウムでは、これまでの親族関係論では捉えきれない新たな「つながり」について、四人の話者から興味深い事例が紹介された。これらの事例で共通しているのは速水氏が総合討論において指摘したように、あらたなつながりを「選択」する個人が存在していること、そして、既存の社会や法制度の縛りという壁と対面していることであった。
同性婚の場合、社会から認められたいという当事者たちの思い、そして親族以外は重要な場に立ち会えないなどいった法 制度の柵による生活上の限界があり、養子縁組によって打開を模索する。しかし同時に、法的に認められるならば、その新たな「つながり」は規定され、それま での多様でゆるやかな関係性は排除される結果にもなってしまう。安全な生殖技術のための制度化は、実際にこの技術を求める人々が活用できない結果となる。また、家族や新たな「つながり」にたいして当該社会が「なにを由とするのか」によって、その個人の「選択」は影響をうける。パキスタン人夫との国際結婚や国際養子縁組の事例においても、そのような「つながり」を生み出す社会背景がどのようなものであるかという点をさらに追求していくことの必要性を椎野氏はコメントで示唆した。
今回の発表では、家族や親族に代わる新たな「つながり」の可能性が示されたが、「つながり」はまた、特に家族のようなつながりでは、切りたくても切る事ができないというネガティブな側面もある。そのようなネガティブな面もまた議論していく必要があるのではないかという意見がだされた。また、現実的な人間関係のなかでは、強固なつながりばかりでなく、なんとなく一緒にいるというようなゆるやかな関係や「クサレ縁」のようなものが大きなウエイトを占めている。血縁/個人の選択による理想的なつながり、という二項枠組みの間を埋める議論が必要となるのではないかとの意見もあがった。そして、田中氏がコメントで発言したように、新たな「つながり」において、それを実在の表象として捉えるのではなく、つながりが生成されるそのプロセス自体を探っていくことが、本課題を検討していく上で重要な鍵となるのではないだろうか。
(文責 加瀬澤雅人)
日 時:2008年10月21日(火) 16:30~18:00PM → 時間変更 14:00~15:50PM
場 所:京都大学東南アジア研究所東棟2階大会議室(E207)→ 場所変更 旧工学部4号館4階大会議室
報告者:篠原真毅(京都大学生存圏研究所准教授)
タイトル:「生存圏に宇宙は必要なのか - イノチのつながりと人と世界 -」
要旨:
人間が今後持続可能な生存圏を形成していくために宇宙は本当に必要なのであろうか。減りゆく人口とこれまでのストック、太陽エネルギーと再生可能エネルギーの有効利用というパラダイムシフトで人間は生存が可能であろうか。本講演では地球環境の現状とそれをもたらした人間の業と性を考え、その間をつなぐ社会=イノチのつながりの重要性を述べながら、人という特殊な生物に適した生存圏に関して考察する。
【活動の記録】
本報告は、持続的な生存基盤を構築するための宇宙開発の役割という問題を出発点としながら、マルサス的な宿命論と科学技術との関係について考察をおこなったものである。
マルサスの人口論(過剰な人口がもたらす貧困は避けがたく、疫病や戦争はその解決策である)は、歴史的には技術の進歩によって乗り越えられたとされる。このことを踏まえ、1970年代に提出された「成長の限界」説や、近年の環境危機説についても、宇宙開発を含む科学技術の展開によって解決が可能であるとの立場がある。科学技術による解決を信じる立場は、結局のところ、人間を「裸のサル」すなわち、その生物としての脆弱さゆえに過剰な欲求を抱えた存在と見なしているように思われる。
他方で人間は、社会的な存在でもある。そのために人間は、協調と規律によって欲望を統御し、生存基盤を確保することができるという立場もあるだろう。これらふたつの立場を比べたとき、倫理によってすべての問題を解決できるという立場をそのまま信用することは難しい。しかし、だからといって、科学技術でしか問題が解決されないと考えることは、裏を返せばマルサス的な宿命論をそのまま受け入れることになる。人類の生存基盤を確保するためには、人間の欲求に対処するための手段としての宇宙開発を一方で進めながら、同時に社会的な倫理ないしは規範について考えることが必要である。
本報告を受けて、次のような議論がなされた。まず本報告が、個人の欲望の拡大という枠組みを前提としていることに対して、人の欲求は量的な拡大を志向するとは限らず、「満足」や「信用」といった社会的な欲求もあるので、欲求そのものの質的な変容も視野に入れた議論をしていく必要があるとの意見が述べられた。また、社会のあり方やそこに生きる個々人の欲求について、マルサス的な史観に基づいた単一の発展経路を前提にするのではなく、その時代・その社会の状況に埋め込まれた価値を考慮し、複線的な発展経路を考える必要があるというコメントがなされた。
(文責 西真如、加瀬澤雅人)
まず第1部では、「生活基盤とリスク」というテーマで、3つの報告があった。市野澤氏は2004年末のインド洋津波後のプーケット日本人社会の事例をもとに「リスク化」のプロセスを整理し、松村氏は自身がJICA専門家としても関わるバングラデシュの地下水砒素汚染を事例に、どのように問題が発見され、行政や住民によってどのような対応がとられているかを論じた。福井氏は日本の高齢者の問題を取り上げ、それがリスクとして立ち現れてしまっている現状を説明し、それに向けたひとつの対応のあり方としての認知症患者会の事例を紹介した。コメンテーターの清水展・東南研教授は、戦後の世界情勢を踏まえて現代のリスクという問題を位置づけたうえで、とくに市野澤報告と松村報告について、それらが既に発生している問題でありながら、果たして「リスク」と呼べるのか、という問いを投げかけた。フロアからも、「リスク」という枠組みにおける「人類学的」研究の特徴は何かについて質問が出た。
第2部は、「生命とリスク」というテーマで、3つの報告があった。松尾氏はインドの生殖医療(とくに代理懐胎)の事例について説明し、そこにおいてむしろ「リスク」が不在のように見えることを指摘した。新ヶ江氏は日本の男性同性愛者をめぐるHIV感染予防のメカニズムを取り上げ、そこでいかにHIV感染予防をし、健康に配慮する主体が作り上げられるかを分析し、問題はむしろそこに入ってこない人々である、と指摘した。西氏はエチオピアのグラゲの事例を扱い、そこではHIV感染者を排除せず、地域社会の関係性のなかに包み込むようなアプローチがなされていることを説明した。コメンテーターの加藤秀一・明治学院大教授からは、科学的なデータだけでは対応できない、宗教や生命倫理などといった問題を、人類学で且つ多義的なリスクという概念をあえて用いることによって何が見えてくるのか、という問いかけのもと、各事例の内容について、突っ込んだ質問がなされた。第3部は「リスク社会の隘路」として、2本の報告があった。木村氏は既存のリスク研究を整理したうえで、人類学的リスク研究のありうべき方向性についての見解を示した。東氏は「リスク社会」の問題点を指摘したうえで、そこから「逃れ」たり「降り」たりすることでは解決にならないが、リスク社会から「旅立」ち、他者とかかわることで、リスク社会を越えるものを見いだせるかもしれない、と論じた。これに対し、コメンテーターの三上剛史・神戸大教授からは、リスク社会学における公共性理論が行き詰まりを見せる中で、人類学からオルタナティブな構想が出てくることへの期待から、二つの報告で可能性として示されていることに対し、より具体的な内容を示してほしい、という意見が出された。
以上を踏まえた総合討論では、本シンポジウムから一つの方向性として示された、リスクに立ち向かうための人々のつながりと、その可能性について、人類学的なアプローチが持つ強みは何か、ということを確認しながら、様々な意見が交わされた。
本シンポジウムは人類学から、今まで取り組まれていなかったリスクという問題にアプローチする出発点としては、それなりに成功していたといえる。しかし、このシンポジウムを通じて、この研究のもつ潜在的な可能性とともに、人類学的研究におけるリスクという枠組みの有効性(あるいは「リスク」という概念の位置づけ)、や「人々のつながり」の可能性など、いくつかの重要な課題もまた明確に示された。
(文責者 木村周平)
日 時:2008年10月10日(金) 17:00~
場 所:総合研究2号館(旧工学部4号館)4階第1講義室(AA401)
日 時:2008年7月26日(土) 14:00~18:00
場 所:京都大学・吉田南構内・総合人間学部棟1102講義室
会場までの道のりは、以下のアクセス・マップをご覧下さい。
http://www.kyoto-u.ac.jp/ja/access/campus/map6r_ys.htm
【共催】
京都人類学研究会
【タイトル】
自立・連帯・生存
~ネオ・リベラリズム時代の「貧困」をめぐる社会学と人類学の対話~
【シンポジウムの趣旨】
ネオ・リベラリズムが推し進めてきた自立化/個人化は、世界的な労働力の流動性を高める一方で、不安定な雇用によるあらたな貧困層を生みだしている。この現代的状況における「生存」という問題を社会学と人類学の対話を通して考える。とくに日本の文脈で強調されてきた「自立化=自己責任」の諸相を、他地域の事例から相対化する。「自立と連帯」/「個人と共同体」という枠組みをこえて、現代の生存を支える基盤を問いなおす。
【プログラム】
14:00~14:30 平井秀幸(日本学術振興会特別研究員)
ネオリベラリズムから<社会的なもの>の再考/再興へ
―「ポリリズムとしてのネオリベラリズム」への抵抗に向けて
14:30~15:10 居郷至伸(横浜国立大学 大学教育総合センター)
日本のコンビニエンスストア
―個人化と搾取のメカニズム、および打開に向けた手がかり
15:10~15:50 仁平典宏(日本学術振興会特別研究員)
現代日本における「ホームレス」の生と構造―自立と連帯のあいだ
(休憩)
16:00~16:40 森田良成(大阪大学 人間科学研究科)
「怠け者」たちの労働と生存―西ティモールの廃品回収人の事例
16:40~17:20 小川さやか(日本学術振興会特別研究員)
都市社会を生き抜く騙しの技法
―タンザニアの零細商人の生計実践と仲間関係を事例に
17:20~18:00 コメント・総合討論
コメンテーター:春日直樹(大阪大学)・山北輝裕(関西学院大学)
【要旨】
◇平井秀幸(日本学術振興会特別研究員)
ネオリベラリズムから<社会的なもの>の再考/再興へ
―「ポリリズムとしてのネオリベラリズム」への抵抗に向けて
本発表は、ネオリベラリズムと現代社会の関連性をめぐる社会学者と人類学者の対話に向けた「土俵作り」の任を担うものである。当日は、(1)「ネオリベラリズムとは何か」をめぐる錯綜した議論を報告者なりに解きほぐし、(2)ネオリベラリズム=複奏的な統治的合理性との理解を提示した後、(3)幾つかの鍵概念を手がかりに現代日本社会とネオリベラリズムの関係性を探り、(4)最後に「抵抗」の規範的ビジョンをやや大胆に提起してみたい。
◇居郷至伸(横浜国立大学 大学教育総合センター)
日本のコンビニエンスストア
―個人化と搾取のメカニズム、および打開に向けた手がかり
本発表では、中小小売商業をとりまく生存競争の中から生成・発展してきた日本のコンビニエンスストアを取り上げる。統計・文献資料、発表者が行った店主へのヒアリング調査データをもとに、本部の加盟店主としてのアントレプレナーシップの発揮が、やりがいの確保と同時に搾取構造を温存させていることを提示する。この問題を打破する試みとして、本部との利益分配や負担区分の取り決めにあるカラクリを暴く店主の発話に着目する。
◇仁平典宏(日本学術振興会特別研究員)
現代日本における「ホームレス」の生と構造―自立と連帯のあいだ
「豊かな」と形容される日本の都市のただ中で増殖している「ホームレス状態」の生。そこに見られる「貧困」の質は、「日本型」福祉システムと、その「ネオリベラリズム」的再編の陥穽を、端的に照射しているように思われる。報告では、1990年代以降の「ホームレス問題」の構造変容について検討しつつ、そこで問題解決のキーワードとして示される「自立」「連帯」などの機制と射程について問い直していきたい。
◇森田良成(大阪大学 人間科学研究科)
「怠け者」たちの労働と生存―西ティモールの廃品回収人の事例
西ティモールの町に、廃品回収業に従事する「アナ・ボトル」たちがいる。僻地の農村から出稼ぎにやってきた彼らは、集めた廃品を親方に売ることで現金を得ている。都市下層における低賃金で取替え可能なフレキシブルな労働力であると同時に、彼らは労働の価値や倫理を親方たちと共有することのできない「怠け者」でありつづけている。アナ・ボトルの日々の労働において現れる複数の価値の重なりとズレに注目し、市場経済の周辺部における生存のあり方を検討する。
◇小川さやか(日本学術振興会特別研究員)
都市社会を生き抜く騙しの技法
―タンザニアの零細商人の生計実践と仲間関係を事例に
タンザニアの零細商人たちは、自身の身体的・性格的な特性を生かした独自のスタイルを確立し、そのスタイルに適した「騙しの技法」を培うことで都市での「自立的な生存」を模索している。発表では古着商人たちの「生きやすさ」と「葛藤」をかれらの経済活動のしくみと仲間とのつながり方から考察することを通して、合法的/合理的/倫理的な「正しさ」からはみでる人間の過剰さを基盤とした生存の在り方を考える。
【備考】
*事前の参加予約は必要ありません。
*当日は、資料代として200円をいただきます。
*京都人類学研究会は、京都を中心とする関西の人類学および関連分野に関心をもつ大学院生・研究者がその研究成果を報告する場です。どなたでも自由に参加いただけます。
松村圭一郎(7月季節例会担当)
清水展(京都人類学研究会代表)
【活動の記録】
本研究会は、ネオ・リベラリズムのすすめる自立化=個人化によってあらたな貧困層が生みだされている状況において、「生存」という問題を社会学と人類学の対話を通して考えることを目的として開催された。
平井研究員は、ネオ・リベラリズムについての議論をまとめたうえで、この用語のもとで保守派・革新派それぞれ複数の議論が並存していることを指摘し、保守主義と左派の“双方”の議論から、絶対化と幻影化から離れた「ネオ・リベラリズム」理解を目指す必要性を示した。
居郷氏は、ネオ・リベラリズム的な就業組織として典型的な例であるコンビニエンス・ストアの流通システムに注目し、フランチャイズの価格設定・ロイヤリティ算定の制度が、廃棄ロスや天候など不確定な要素を本部が加盟店に巧妙に負わせている実態をあきらかにした。
仁平研究員は、日本型福祉社会のあり方を1960年代以降の歴史的な文脈のなかに位置づけたうえで、日本のホームレスに90年代以降、新しいホームレスのかたちが生じていることを示した。また近年のホームレスに対する「自立支援対策」のあり方を批判的に検討し、「自立」という言葉に含まれる抑圧的な生の統治をあきらかにした。
森田氏は、西ティモールの廃品回収に従事する人びとに注目し、彼らの生計や消費への姿勢が計算的な合理性からは理解できないことを示した。それは仁平が示した「自立」の要求とは相容れない受動的な「待ち」の生のかたちであり、日本における自立化=個人化の異様さを浮かび上がらせた。
小川研究員は、タンザニアの路上古着商人の商売や人間関係のあり方を豊富な資料から示し、農村から出てきた若者たちによって構成される都市の社会関係が濃密で密着した関係でも、切り離された個人でもなく、「だまし」や「裏切り」を駆使しながらも、それを期待・許容する緩やかな社会的基盤が構築されていることを示した。
コメンテーターの山北氏は、社会学が問題提起型の発表になっているのに対し、人類学が対象の肯定的な側面を強調していることを指摘したうえで、人類学の肯定的に描いた世界がどのような社会的状況や政策的背景のなかで存立しているかを問うた。さらに、春日氏は、社会学と人類学の対話によって、互いの限界や新しい可能性がみえたことを積極的に評価したうえで、問題の個人化でも、統治的な連帯でもなく、あえて夢想や虚無といった境地に肯定的な視線を向けることを提起した。
各発表と議論をとおして、「生存」の多様な諸相が浮き彫りにされ、統治的な手法にとらわれないアプローチの必要性が提起された。
日 時:2008年7月11日(金)~12日(土)
場 所:京都大学東南アジア研究所・東棟2階大会議室(E207)
※若手研究者養成部会・イニシアティブ4および萌芽科研「防災教育・自然災害復興支援のための地域研究を目指して」共催の合同研究会です。
本シンポジウムは、「生存基盤持続型の発展を目指す地域研究拠点」の形成を目指した活動の一里塚として、若手研究員の研究成果を取りまとめ、地域研究の新たな展開、少なくともその方向性と可能性について議論し、明らかにしようとするものである。
地域と研究の間に「/」が入っているのには、2つの理由がある。1つは、災害に対して、地域住民は立ち向かうが、地域研究は真正面から立ち向かってこなかった。そのことと関連して、第2には、地域住民と研究者のあいだに、実際の亀裂や懸隔がある。それを明示するための斜線である。したがって、「/」は、問題の所在を示している。
問題があるところに、初めて研究への動機づけが生まれる。問題意識がなければ研究は始まらない。本シンポジウムの初発の問題意識は、以下のとおりである。
災害対策・対応・克服に関わる行政関係者や大学研究者は、「防災・減災・復興のためには、当該地域の住民自身の積極的な関与、コミュニティの役割が重要である」との認識を共有している。しかし最も重要な「地域」あるいは「コミュニティ」の内実は、ブラック・ボックスのまま放置されている。空疎な内実の周囲を空回りしているだけでは、限られた資源を適切に配分し、有効な対策を立てることに限界がある。そのことを危惧し、地域研究/文化人類学からの可能な貢献の一方途として、個別の被災コミュニティの内実に応じた、防災~災害緊急援助~長期復興支援への積極的な関与の可能性を考える。
確かに地域・コミュニティは使い勝手の良い便利な言葉である。しかし一国内においても、ましてや異なる国では、その実態が異なる。地域・コミュニティという言葉の含意とは裏腹に、その実態は均質で友愛に満ちた調和ある集団ではない。地域・コミュニティの内部には、親族姻戚関係、友人知人のネットワーク、政治的派閥、貧富の階差、性差、宗教・民族、年齢、その他によってさまざまな亀裂や分断線が走っている。地域・コミュニティごとにその内実、すなわち成員の構成や生活・秩序の維持・運営のされかたが異なると言って過言ではない。
それゆえ、被災地・コミュニティの歴史背景や現状の政治経済的・社会文化的構成の特徴に応じて、きめ細かに応じた対策を立てることが復興のために不可欠である。とりわけ、アジア地域・アジア各国では、言語・文化を異にする民族が多数共存しており、巨大災害においては複数の民族集団が同時に被災することも珍しくない。(東南アジア)地域研究者が防災~復興の具体的なプロジェクトに、積極的に貢献する可能性と介入すべき理由がある。 また他方では、災害を、生存基盤を揺るがし、ときに破壊する脅威として捉えることをとおして、問題の所在を逆転させ、そもそも生存基盤とは何か、それを持続させるためには何が必要なのかという問題について考え、生存基盤という概念自体を鍛えあげることをめざす。さらには、災害に関わる諸問題への取り組みをとおして、地域研究と文化人類学の再活性化の可能性を考える。単に院生の就職先として災害関係プロジェクトや機関がありうるというだけでなく、ディシプリンそのものの概念や方法の鍛えなおしも目指している。人間の(全生命体の?)生存基盤には、さまざまなレベルがある。何よりもまず、各個人の身体そのものが生存の基盤である。新生児や乳幼児にとっての母と父、長じては家族・親族・社会もまた生存の基盤となる(ヒトのみが家族・親族および群れ・社会という二つのレベルの集団を生存の基盤として有する)。さらには、地域社会、ネットワークで結ばれた諸関係、そして国家もまたひとつのレベルの生存基盤である。そして水・空気・土地を要素とする全体的な生態・自然環境もまた、不可欠の生存基盤である。
そうした異なるレベルでの生存を揺るがす脅威として、本シンポジウムで念頭に置いている災害は、具体的に、1)重篤感染症、2)地震・津波、3)台風・大雨・洪水、4)旱魃・塩害、5)紛争(戦乱)、… などである。すなわち、きわめて短時間のあいだに安寧な日常生活の存続を困難あるいは不可能とし、人の生き死にを左右するような出来事である。
【個別の発表要旨】
1. 生存基盤が壊れるということ:ピナトゥボ山大噴火(1991)による先住民アエタの被災と新生の事例から
清水展(京都大学東南アジア研究所)
1991年6月の西部ルソン・ピナトゥボ山の大噴火は、同時期に起こった雲仙普賢岳の600倍、20世紀最大規模の爆発であった。その直接で最大の災害を受けたのは、ピナトゥボ山麓で移動焼畑農耕を主たる生業として、自給自足に近い生活をしていた約2万人の先住民アエタであった。彼らの家屋や畑は数十センチから1メートルの灰に埋まり、全員が集落を捨て一時避難センター、さらに再定住地への移住を余儀なくされた。その後も数年にわたり、大雨のたびに繰り返し襲ったラハール(土石流氾濫)によって、集落のほとんどは数十メートルの土砂に埋まった。
今回の発表では、アエタの被災と復興の十年におよぶ歩みを紹介し、生存基盤が壊れるということがどういうことなのか、逆に彼らにとって生存基盤とは何なのかを考える。 また、フィールドワークを主たる研究手法とする人類学者や地域研究者が、災害と関わることによって、「学」そのものにどのような可能性が拓かれるかも考えたい。できれば、東南アジア研究所やASAFASの存在理由である「地域研究」の再考・再想像(創造)まで考察を進めてみたい。
2.「災害に強い社会」を考える:2004年スマトラ沖地震津波の経験から
西芳実(東京大学大学院総合文化研究科)
2004年12月に発生したスマトラ沖地震津波は死者・行方不明者20万人を超える未曾有の自然災害として世界の関心を集め、特に震源地に最も近く多数の犠牲者を出したインドネシア・アチェ州は大規模かつ国際的な救援復興活動の対象となり、国際援助機関・各国政府・NGOといった人道支援の実務家のみならず、市民ボランティアや報道関係者・研究者が現地で活動を展開した。こうした災害を契機に新たに始められた外部社会から地域社会に対する働きかけは、対象となる人々から予想外の反応をしばしば得ることになった。本報告ではこうしたズレが生じる背景として、外部社会からの働きかけの前提となっている地域認識に注目し、被災状況ならびに救援復興活動の評価に被災前の状況を踏まえた地域理解を導入することでズレを理解することを試みたい。
3.「都市のリスクと人びとの対応:バンコクのコミュニティにおける火災の事例から」
遠藤環(埼玉大学経済学部)
本報告では、2004年4月に大火災によって全焼した都市の密集コミュニティの事例を取り上げる(約800軒が全焼、8000人が被災)。火災は、主に都市下層民が集住するコミュニティが潜在的に抱えるリスクの一つである。ただし、一旦火災が発生すると、都市下層民、特にインフォーマル経済従事者は、住居のみならず生産手段を失うため、生活や労働のいずれの側面にも甚大な影響を受けることになる。また都市下層民、およびコミュニティは決して一枚岩ではないため、復興過程は階層性を帯びている。本報告では、都市のリスク、コミュニティに関して簡単に定義した上で、人々のリスク対応過程に注目する。復興過程の階層性をふまえながら、主に居住と職業の面から検討する。住居再建に関しては、政府の介入がむしろ、様々な対立を生み、恒久住宅完成に4年という月日を要した。復興過程が長期化した要因に関しても最後に考察を加えたい。
4. 「地震の不安と地域社会:トルコ、イスタンブルの事例から」
木村周平(京都大学東南アジア研究所)
トルコ共和国イスタンブル市は、近い将来、大きな地震が襲うことが予想されている。このことが市民に明らかになったのは1999年に近隣で発生した地震(マルマラ地震)の際であった。イスタンブル市民の災害に関する意識はこれをきっかけに急速な高まりを見せたのち、しかし現在は急速に冷え込みつつある。本発表では、そうした状況下で奮闘している、住民レベルの防災活動のひとつの事例を紹介し、この活動に人々がどのように関わりあっているのかを追うことで、未来の災害に立ち向かう「地域」とは何なのかについて考察したい。
5. 温暖化および気候変動にどう対応するか?:水災害を事例として
甲山治(京都大学東南アジア研究所)
2007 年,気候変動に関する政府間パネル(IPCC)は,第4 次評価報告書第1 作業部会報告書において,平均気温の上昇,平均海面水位の上昇,衛星観測を用いた雪氷域の広範囲の減少などから,全球的な気候システムの温暖化は疑う余地がないと断定した.一方,気候変動は一概に断定できるものではなく,特にローカルなスケールごとに異なるメカニズムが存在するために,その理解が一層複雑である.
本発表では,気温上昇の影響を顕著に受けつつある中央アジアの水循環と水災害を中心に,地域が気候変動にどう対応していくかを議論したい.また日本や他の地域で行われている最新の研究成果も合わせて紹介することで,各地域で懸念されておる影響に関して紹介する.
6. 農業水利変容とその影響:インド・タミルナドゥ州の事例
佐藤孝宏(京都大学東南アジア研究所)
気象学および環境学的事象として取り扱われる場合、旱魃は「土壌水の枯渇と植物の障害を引き起こすに足る長期間の無降雨」と定義される。しかしながら、降雨によってもたらされる水は、各産業における生産基盤としての性格も有している。水をめぐる問題を考えるとき、自然科学的な視点のみならず、社会経済的な視点からの検討は不可欠である。
1947年の独立以来、灌漑施設整備はインド政府における農業開発の中心的役割を担ってきた。しかしながら、水源開発の中心はダム関連事業や井戸整備に置かれ、地域環境条件に調和するよう歴史的に発達してきた溜池のような在来技術はカヤの外に置かれた。1950~95年の45年間にインド国内における灌漑面積は3倍以上に増加したものの、その恩恵はすべての人々に与えられたわけではない。水循環の単位である河川流域の間のみならず、流域内部、ため池受益地内部など、あらゆる空間レベルで水へのアクセスに格差が認められ、そのことが地域住民の生活に大きな影響を与えている。本発表ではインド南東部のタミルナドゥ州を事例として、異なる空間スケールにおける農業水利の変容を概観するとともに、水資源の経済学的評価も加えながら、「水」の持つ生存基盤としての意味を再検討することを目的とする。
7. 塩と共に生きる?:タイ東北部における塩害と生存基盤
生方史数(京都大学東南アジア研究所)
災害というと、我々は、地震、津波、洪水などのような突発的に起こる激しい災害や、旱魃などのような、因果関係や症状が「見えやすい」災害を想起しがちである。しかし、激しくはなくとも、ゆっくり、しかし確実に進行していき、しかも「見えにくい」災害も存在する。
本発表では、タイ東北部における塩害を事例に、その発生メカニズム、これまでの国や諸機関の対策、そして被害を受けた現場の実態を紹介することで、塩害のように因果関係や症状が見えにくく、漸次進行していく災害に対して、国家や住民が対応する際に生じる問題点について議論する。そして、このような種類の災害に対しては、国も住民も社会セクターも、現時点で実行可能な対策が非常に限られていること、それゆえに、現場の論理として「災害と共に生きる」という視点が重要になることを強調したい。
8. ウイルスと民主主義:エチオピアのグラゲ県におけるHIV/AIDS問題と地域社会の取り組み
西真如(京都大学東南アジア研究所)
世界のHIV感染者は3,300万人にのぼる。そのうち約3分の2が生活するサハラ以南アフリカでは、HIV/AIDSは社会機能の崩壊をもたらす恐れのある、深刻な災害のひとつだと見なされている。
もっともエイズが「死の病」とされたのは、過去のことである。効果的な抗ウイルス治療の確立によって、感染者における平均余命の顕著な延長が報告されてきた。このことは、より多くの感染者が、より長いあいだ社会の中で生活することを意味する。HIV/AIDSは、単純に撲滅できる感染症、あるいは回避しうる災害だと見なされるべきではない。必要とされているのは、ウイルスおよびウイルスとともに生きる人々と共存しうる社会である。本報告では、エチオピアのグラゲ県における地域住民のHIV/AIDS問題への取り組みを紹介する。同県では、地域の伝統的リーダーが中心となり、在来の社会制度を活用して感染予防および感染者へのケアを推進する、ユニークな取り組みが行われてきた。またそれら取り組みの有効性や妥当性をめぐり、住民間で活発な議論がなされている。本報告では、グラゲ県住民による取り組みや議論の考察を通して、感染者と非感染者の生活が、ともに持続的であるような民主的な社会の条件について考える。
9. 自然災害で現れる「地域のかたち」--インドネシアの地震・津波災害の事例から
山本博之(京大地域研究統合情報センター)
2007年9月のスマトラ島南西部沖地震発生直後の現地調査をもとに、被災で表われる「地域のかたち」をどう読み解くかを考える。それぞれの社会は被災前からそれぞれ課題を抱えており、その解決のために努力している。被災はそのような課題を(外部世界の人々を含む)人々の目に見えやすくする契機となる。
自然災害の緊急・復興支援では、被災前の状態に戻すことが目標とされ、支援プログラムを作るために被災者のニーズ調査が行われる。ただし、被災者が語るニーズを重視しすぎれば、「地域のかたち」のように言葉で語れないものに関するニーズは支援の対象から漏れることになる。
生存基盤の議論は、主にそれをどのように手に入れるかという観点から語られてきた。しかし、グローバルな協力が行われている今日の国際社会では、生存基盤をどのように「手に入れるか」だけでなく、どのように「与えるか」も重要である。被災で「失われたもの」「壊れたもの」を元に戻そうとする「生存基盤補填型」の支援だけでなく、被災社会が被災前から抱えている課題などを踏まえたうえで、被災を契機によりよい社会を作るという発想に基づいた生存基盤持続型の支援が必要である。
一日目は、地震や津波、火災といった、突発的な災害の事例が紹介された。これらの事例では、防災や復興の局面における「コミュニティ」と、政府や援助機関との関係が議論された。コミュニティは防災や復興の重要な担い手とされるが、住民間の緊密な関係が、少なくとも政策立案者が想定するかたちでは存在していない例や、災害を契機に住民間の利害対立が先鋭化する例がある。
一日目の総合討論においては、災害の当事者の間にある分断や格差を前提として、地域/研究による災害への取り組みを理解しようとする議論がなされた。防災や復興に取り組んだ経験をもとにして、特定の地域で生活する人びとの間に緊密な関係が成立する可能性が指摘された。また地域を越えて、同じ災害を経験した人びとの間に「被災地のネットワーク」と呼びうるような連帯が成立していることが挙げられた。加えて、災害の直接の当事者と、研究や支援といったかたちで当事者に関わるステークホルダーとの関係に注目し、issue-orientedな地域研究を確立してゆくことの重要性が指摘された。
二日目は、気候変動や水不足、塩害、HIV/AIDSなど、漸次進行する災害についての事例が紹介された。これらの事例においては、市場経済化や近代的所有制、あるいは民主主義の浸透といったグローバル化の様々な様相が深く関与していることが示された。
二日目の総合討論においては、大きく二つの点――災害援助において地域研究者がいかなる役割を担えるのか、そして、現場の知をどのようにとらえていったらいいのか――についての議論がなされた。
地域研究者は個々人の生活の視点から地域を捉え、また災害以前の社会状況や諸問題を踏まえながら、災害における地域特有の問題への対処方法を、政策立案者ややNGOに提示してきた。しかし地域研究者の提示する情報は、公的な援助機関が必要とする「客観的な情報」とは異質なものと受け止められたり、復興支援に携わる技術者の知見と相容れない部分があると見なされることがある。地域研究者が他の災害復興の関係者と協働するため、両者の間でコミュニケーションを確立する必要があるとの意見が述べられた。
またこのこととも関連して、これまで災害復興活動の基盤を支えてきた知が客観的な分析による知に偏重してきたことへの批判も多々挙げられた。地域のあり方を確定し復興のための「正しい」道筋を断定するという、これまでの知のあり方そのものを批判的に捉えなおし、多元的な知をつなぐ運動としての地域研究を目指すべきだという意見が述べられた。
(文責:加瀬澤雅人、西 真如)
日 時:2008年7月4日(金) 13:30~15:30
場 所:人文科学研究所本館(新館) 1階セミナー室1(101号室)
http://www.zinbun.kyoto-u.ac.jp/kotu.html
話題提供者:速水洋子
タイトル:「生のつながりへの想像力―三つのカレン社会の事例に見る再生産の文化」
ディスカッサント:藤倉康子 (New School for Social Research)
要 旨:
人類学では長らく、社会の安定的存続の理解の根幹に親族という研究領域を据えてきたが、これは過去四半世紀来もはや成り立たなくなっていた。それは、一つには親族の理解の根幹にあったつながりの理解そのものが、近代産業社会を支配する生―権力に裏打ちされた知のレジームに立脚していたことが明らかにされたことによる。そして親族研究で前提とされた人間の生のつながりにおける生物と社会、自然と文化の二分の再考がせまられた。加えて新生殖技術の開発は、自然・技術・科学の関係における知の諸前提そのものの再構成を求めてきた。しかし一方で生殖技術が開いた様々な新しい可能性はその多様化のかげで、私たちの生のつながりへの想像力をむしろ限定してきたともいえる。私たちの研究対象としてきた社会における生活実践の中で、生のつながりは、自然と文化の二分をこえ、より豊かな広がりをもった想像を可能にする。これまで行ってきたタイとミャンマーにおける三地点のカレン社会の調査から、生のつながり、継承を確保し紡ぎだす方途が様々に変転しながら準備されてきたことを示す。歴史的体験、支配社会との関係、生業形態、宗教が異なる三地点で、形は其々ながら、同じようにつながりが確保される。こうした民族誌的事例を単なる彼方の他社会の寓話とするのではなく、グローバル化する世界にあって生のつながりをあらためて確保する想像の基盤とすることができないだろうか。
【活動の記録】
発表では、はじめに、これまでの人類学において、親族および「再生産」に関わる問題がドメスティックな領域に封じ込められてきたことを批判的に検討し、さらに近年の新生殖技術に関する研究も踏まえて、「つながり」という問題を再考する必要性が主張された。そしてカレン族の3地域での事例を紹介しながら、動態的でかつ生物学的な身体をも包摂したものとして親族論を組み直し、人類学以外の人文科学や自然科学との交流や議論が可能な新たな親族論が提示された。
質疑応答において、ディスカッサントの藤倉康子氏(New School for Social Research)は、今日のアメリカでは人類学における親族論研究・教育が、バイオポリティックスの一形態として理解されている現状を紹介し、速水氏の主張する親族論とRabinowの言うBio-socialityの議論との類似性や関連性を検討することを提案した。このコメントをうけて、フロアからは親族論における普遍性と固有性、社会性と生物性(自然)について、様々な意見が挙がった。さらに氏の提示する親族論の捉え方にたいして、社会変化・制度的な変化の影響についても考察していくべきではないか、また、親族論の脱構築を図るのなら、従来の親族論の語彙にとらわれるべきではないのではないか、などの意見もでた。
事例で示されたカレンの各々の社会では、いっけん些細に見える実践を通じてそれぞれの親族における独自性や差別化が図られていることが見受けられ、それが代々継承されている。一方で、この次世代への継承は生物的な再生産としても存在し、それは人類に普遍的な共通性を持つものとしても捉えることも可能であり、そこにローカルとグローバルの関係という、GCOE全体につながる問題の糸口を見出すことができるかもしれない。さらに再生産の場には、次世代へ何を継承し何を捨象していくのかという、イニシアティブ4が議題として掲げる「価値」の問題も含まれている。どのような実践や知がより良き生のために重要であり、なにを次世代のために選択しているのか、親族研究は生存における価値を探る上でとても重要な鍵となるのである。そのため、自然科学系の研究者からは、親族研究から人類共通の意思決定というようなものが想定できるのではないか、そしてそれが可能ならば、そこに人類学がどのような関与や見解を示していくことができるのかという質問が挙がった。一方人類学者の側からは、自然/社会を個別・対立的にみていくのではなく、その両者の繋がりを明らかにしていくことからはじめるべきであると説明された。さらに、この問題を通じて、人類に共通に普遍化できる知の在り方を示すことも可能となるのではないかという見解も示された。
(文責 加瀬澤雅人)
日 時:2008年6月20日(金) 14:00~17:00
場 所:人文科学研究所セミナー室1(101号室)
話題提供者:木村周平(京都大学東南アジア研究所GCOE助教)
タイトル:「人・モノ・技術のネットワークへのイントロダクション」
要旨:
本発表は、いわゆる人文社会系と理工系の研究の接点として、人・モノ・技術のネットワークという枠組みから生存基盤について考えるためのひとつの試みである。本発表では具体的には2つのことを行う。まず、STS(科学技術社会論)の議論と、そこで現われてきた「社会(あるいは地域)」と「科学技術」を分断せず、ひとつの混成物あるいはネットワークとして記述する仕方について、事例を交えながら紹介する。次に、以上の枠組みに基づきつつ、生存基盤にむけて議論を進め、人・モノ・技術の、圏-横断的な相互作用の記述が、パラダイム形成にとってのひとつの貢献になりうることを主張する。
話題提供者: 足立明(京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科教授)
タイトル:「活動における多様な知のありよう」(仮)
要 旨:
歴史的に蓄積された在来知(概念・実践知、生態・社会関係、価値観、技術・技法など)と近代的な科学技術・制度・思想との媒介・接合を考える際に、必要と思われるさまざまな知のありようを、物知識、空間知能、風土知識といった概念をとおして考えてみたい。
【活動の記録】
今回の発表では科学技術に対してSTS研究,アクターネットワークといった人文科学からの議論が紹介され、人文科学系、科学技術系それぞれから多くの参加者があった。
木村氏は、これまでのSTS研究やネットワーク論を踏まえて今日の科学技術の在り方を捉え、また地域社会の在来知のあり方を比較したうえで「安定化」という動態的な視点を導入し持続型生存基盤の可能性を考察した。一方足立氏は、アクターネットワークの議論に生態心理学や活動理論を交えて、具体的な活動や問題解決に関わり得る方法を検討し提示した。コメンテイターからは、科学技術という「ブラックボックス」を開くことにいかなる意義や有用性があるのかという質問が発せられた。これに対し、これまで見えなくなっていた視点を提示することで、科学技術が社会的なものであることを確認し、そのことは実際にそれらが社会で活用される場においても重要な意味合いをもつと両発表者は説明した。
出席者を交えた質疑応答においては、「科学技術論」として科学と技術をひとくくりに論じることへの疑問が示された。また太陽発電衛星(SPS)研究にかかわる篠原氏は、SPSが実現されない背景に、技術が固定化された知や言説のなかに「安定化」してしまっているからなのではないかと述べ、「安定化」そのものが技術革新を阻害している可能性があることを示唆した。木村氏は、揺れ動きながらも安定化していく在来知のあり方を参考に、安定化を固定化とは違うものとしてみるべきであると説明した。
このほか、ネットワーク論においては権力性の扱いが不明確であるという指摘に対して、この議論が既存の権力構造にとらわれないことによる、新たな議論を切り開く可能性の存在を、足立氏は示唆した。また「誰にでも良い」科学技術や知識が存在するのだという言説自体をまずは問題にするべきであり、そのため「価値」を考えていく必要があるのだろうという指摘がなされ、誰にとっての生存基盤なのか、といった根本的な問いに立ち戻って考えていくことの重要性が確認された。
本研究会は科学技術をめぐって、文系、理系の垣根を越えて白熱した議論が交わされる有意義な場となった。ただし出席者の中には、科学技術論の射程とその有効性について、わかりにくいところがあるという意見も少なくなかった。この点については今後、十分に時間をかけて議論していく必要があるのではないだろうか。
(文責 加瀬澤雅人)
日 時:2008年6月17日(火)
場 所:東南アジア研究所(東棟2階会議室E207)
発表者:パトリック・コリンズ(麻布大学経済環境研究室)
タイトル:宇宙太陽光発電(SPS)のオペレーショナル・デモンストレーター用レクテナ(受電アンテナ)についての赤道直下の国での現地調査から」
発表概要:
1991年の国際SPS研究会で、「SPS2000」という太陽発電衛星のオペレーショナル・デモンストレーターについて、日本人研究者の提案した論文が SPS実現のためのもっとも優れた提案として表彰された。「SPS2000」について、20カ国で多くの研究論文が出版されるほか、プロジェクト提案者である松岡秀雄教授とコリンズ教授は、赤道直下の多くの国を訪問し、SPS実現に向けて研究者や政府の代表と交渉を繰り返した。訪問国は、東南アジアおよびその周辺では、パプアニューギニア、インドネシア、マレーシア、ナウル、キリバス等であった。その結果、各国の代表はこのプロジェクトに関心をしめし、多くのレクテナ(受電アンテナ)を設置するサイトについても検討した。
将来のエネルギー問題と環境問題を根本的に解決するためには、先進国と発展途上国の深い協力関係が必須である。「SPS2000」を実現するためにも、そのことは例外ではない。日本が指導力を発揮し、先端技術の分野で赤道直下の国々との協力を進めることは日本にとって有益である。宇宙からの電波エネルギーのユーザーとして、これらの国々は国際基準を作ることにもなるかも知れない。 エネルギー供給を増やすために中国やインドもSPSに感心を示しているという。また、欧州宇宙局(ESA)はロシアと協力して、クールーという赤道に近い打上所からソユーズロケットを2009年から打ち上げる予定である。これが実現すると、初めて、有人宇宙活動が赤道上軌道で可能となり、「SPS2000」の実現に一歩近づくことになる。
1991年の国際SPS研究会で、「SPS2000」という太陽発電衛星のオペレーショナル・デモンストレーターについて、日本人研究者の提案した論文がSPS実現のためのもっとも優れた提案として表彰された。その実現のためには、赤道上の低軌道宇宙空間に太陽発電衛星を打ち上げ、赤道直下の国や地域に電力を供給しようとするものである。発電用パネルはその後改良が加えられ、レクテナ(受電アンテナ)もワイヤによるメッシュ構造のため、レクテナ設置場所での農業などの土地利用も可能である。「SPS2000」について、世界12カ国で多くの研究論文が出版されるほか、プロジェクト提案者である松岡秀雄教授とコリンズ教授は、赤道直下の多くの国を訪問し、SPS実現に向けて研究者や政府の代表と交渉を繰り返した。訪問国は、タンザニア、パプアニューギニア、ブラジル、インドネシア、エクアドル、モルディブ、マレーシア、コロンビア、ナウル、キリバス、ガボン、サオトメであった。その結果、各国の代表はこのプロジェクトに関心をしめし、 多くのレクテナを設置するサイトについても検討した。
最近の展開として注目すべきは、次の3点である。
1. 技術的な側面からの主要なリスクは、宇宙での発電所の組み立て作業である。しかし、欧州宇宙局(ESA)はロシアと協力して、クールーという、赤道軌道上での有人飛行が可能なソユーズロケットを2009年から打ち上げる予定である。これが実現すると、組み立てのリスクを軽減することができる。
2. 潜在的にエネルギー需要が高いインドと中国にもSPSによる電力供給の対象とすべきである。そのためには、南北の緯度が6度までSPSによる電力供給がカバーされる必要がある。このことは同時に、アフリカの大半の国もカバーすることになるが、技術的な改善が必要である。
3. エネルギーは国家の安全保障に関係があるが、SPS2000のアイデアは、日本による平和的国際貢献に大いに役に立つであろう。とくにヨーロッパやアメリカがSPSにあまり関心を示していない現状では、日本の役割は大きい。
(文責 柳澤雅之)
日 時:2008年6月17日(火)14:00~
場 所:京都大学大学院総合研究2号館(旧工学部4号館)4階 資料室II(AA462号室)
発表者:金子守恵(京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科/日本学術振興会 特別研究員)
発表テーマ:「予備調査報告:エチオピアにおける生活技術」
日 時:2008年5月19日(月) 14:00~15:50 → 時間変更 13:30~15:20
場 所:京都大学東南アジア研究所東棟2階会議室(E207)
話題提供者:清水展 (京都大学東南アジア研究所)
題目:「生存基盤が壊れるということ:ピナトゥボ山大噴火(1991)による先住民アエタの被災と新生の事例から」
【趣旨】
1991年6月の西部ルソン・ピナトゥボ山の大噴火は、同時期に起こった雲仙普賢岳の600倍、20世紀最大規模の爆発であった。その直接で最大の災害を受けたのは、ピナトゥボ山麓で移動焼畑農耕を主たる生業として、自給自足に近い生活をしていた約2万人の先住民アエタであった。彼らの家屋や畑は数十センチから1メートルの灰に埋まり、全員が集落を捨て一時避難センター、さらに再定住地への移住を余儀なくされた。その後も数年にわたり、大雨のたびに繰り返し襲ったラハール(土石流氾濫)によって、集落のほとんどは数十メートルの土砂に埋まった。
今回の発表では、アエタの被災と復興の十年におよぶ歩みを紹介し、生存基盤 が壊れるということがどういうことなのか、逆に彼らにとって生存基盤とは何なのかを考える。また、フィールドワークを主たる研究手法とする人類学者や地域研究者が、災害と関わることによって、「学」そのものにどのような可能性が拓かれるかも考えたい。
【活動の記録】
本発表に続いて「映像なんでも見る会」も開催され、清水氏が監修した『灰の中の未来〜二十世紀最後のアエタ族〜』が上映された。この両者を通じて、ピナトゥボの噴火という突発的な出来事によって、アエタの人々がライフスタイルの変更を余儀なくされたのと同時に、自分たちのアイデンティティを再認識する動きも生まれていることが示された。議論はさらに、我々研究者のフィールドに対するアプローチのしかたについても及んだ。フィールドやそこで生きる人々とは、単なる研究の対象(現地・インフォーマント)としてではなく、さまざまな問題が発生し影響する場・それに関わり合う人々(現場・当事者)としてかかわっていくべきである、と清水氏は主張する。その意味で、「地域」という枠組みも、それぞれの出来事や問題を起点にして捉えていくことが必要となるのであり、そこからは人類学や地域研究の今後の可能性が示唆された。
質疑応答では、災害からの「復旧」という言葉に対して、現状復帰か変化しながらの復興か、どちらを目指すべきかとの問いがあった。これに対し、できる限り現状復帰が理想的であるが、同時に出来事をきっかけに明らかになった問題を解決しながら復帰していく可能性も存在するとの返答がなされた。災害によって当事者たちが様々な外部との関わりをもつようになったこと、彼らの問題が表面化したことは、決してネガティブな側面だけではなく、良い社会・生を生み出すチャンスともなっている。本事例からは、今後各地で起こりうるだろう様々な災害とそこからの回復にたいして、具体的な提言ができるだろうとの期待も寄せられた。
また、出来事を中心とした研究、調査のあり方に対し、フィールドに臨む若手研究者からは、現地に入って研究テーマを発見するスタイルでは問題があるのかという質問が出た。それにたいして、氏自身もまた現地に入ってみて偶然にこの出来事に出会った経緯を述べ、研究者自身の切実な問題関心や現状社会での問題を発端にアプローチしていくことで、社会にたいしての役割を担える学として人類学が鍛錬されていくのではないかと返答した。
さらに、出来事を中心としたアプローチのみでは「持続型生存基盤」研究は成り立たないのではないか、時間的な経過のなかでの長期変動のようなものも視野に入れる必要があるが、それは人類学的な方法からは可能か、という問いが出された。これに対して、人類学においてはむしろ日常性に目を向けていたために清水氏のアプローチが画期的だったことを指摘したうえで、とはいえ多様なアプローチによる研究分野との連携・共同研究によって視座を豊かにしていく必要もある、という意見が出された。
(文責 加瀬澤雅人)
日 時:2008年5月13日(火)14:00~
場 所:京都大学大学院総合研究2号館(旧工学部4号館)4階 資料室II(AA462号室)
※今年度の活動計画についてのミーティング等
日 時:2008年5月9日(金) 14:30~16:20
場 所:総合研究2号館(旧工学部4号館)4階東側・大会議室
話題提供者: 田辺明生
題目:「イノチの人類学へ向けて」
【趣旨】
人の生(イノチ)を身体と環境の相互作用の全体としてとらえること、その相互作用のありかたに介在する現代的な技術と制度に注目すること、そこにおいて人がより豊かな生を探求するための新たな可能性と問題がいかに現れているかを考察すること、こうした問題にアプローチするために人類学の理論的枠組みを再検討すること。こうした目的のために、「生(イノチ)の人類学」を構想したいと考えています。
現代世界において人々がより豊かな生を想像し追求することを可能にするために、イノチを、個人が所有するものとしてではなく、日常的な再帰的実践を通じて、人が環境との相互作用の中で自己と世界を構築していく営みとしてとらえ、こうした生命観にもとづいた新たな人間像・社会像を将来的には提出できないものかと、個人的には妄想しています。
現代の技術制度の発展の中で、身体と環境の可塑性・統御可能性とその限界をめぐる実践倫理的問題は、イノチとは何かという問いをますます重要なものにしているように思います。「イノチの人類学」の可能性を話題にしながら、こうした同時代的にアクチュアルな問題を皆様と一緒に議論し考えていくための場となればと願っています。
【活動の記録】
発表では人における、生物としての「ヒト」と文化的な「人間」との再統合を目指し、特にその相互作用のありかたに介在する現代的な技術と制度に注目していく「生(イノチ)の人類学」のありかたと、その可能性が紹介された。
これまで身体にかかわる人類学では、主にバイオポリティックスの視点から議論されてきた。人の身体は近代的な技術や制度を無意識のうちに内面化していく。そのような状況にたいして、田辺繁治は「統治する権力に直面しながら、自らの自由を行使する余地を拡大していく社会的実践」に解決の可能性を探る。しかし、これは近代社会の責任ある個人、主体という枠組みに依拠したものであり、主体もまた統治性のなかで構築されるものである以上、自由の基盤がどこにあるのかが不明であるという。
フーコーのいう「生の技法」を、生きる主体と統治性や権力のネットワークのなかでとらえていくのでなく、むしろ、人が生態社会環境のなかで生きるなかでその相互作用のなかから、自己と世界を構築していく実践倫理的な営みとして、つまりバイオモラルの視点から捉えなおしていく。発表では自身の調査するインド村落社会の変容を事例に、この新たな視点の必要性が示唆された。
質疑応答においては、バイオモラルという言葉のもつ多義的なイメージから、まずこの概念を精緻化していく作業がおこなわれた。まず、バイオポリティックスとバイオモラルとの関係についての質問・意見が多数発せられた。国家や制度の身体への介入と、日常的な実践のなかでのバイオモラル的なものとの関係をどう捉えていったらいいのか、バイオモラルとして理解すること自体に価値認識が存在するのではないかといった点など、異論も含めて様々な議論が交わされた。さらに、バイオモラルという概念がバイオポリティックスの対となる概念となり得るのか、あるいはフーコーのバイオポリティックスに収束するのなのではないのかといった意見も投げかけられた。これらの質問に対して、バイオモラルをバイオポリティックスへのアンチテーゼとしてのみとらえるのではなく、また対立軸として想定しているわけではないこと、むしろフーコーの議論に近い側面もあることを理解した上で、これまでの権力が主体をつくっていくという理解を超える試みとして、この新たな概念から可能性を生み出していきたいとの返答があった。
(文責 加瀬澤雅人)
日 時:2008年5月8日(木) 10:30~
場 所:京都大学大学院総合研究2号館(旧工学部4号館)4階 新第一講義室(AA470)
発表者:佐々木綾子(京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科/日本学術振興会 特別研究員)
発表テーマ:Transformations of Land-use and Forest Resource Management in
'Miang Tea Gardens', northern Thailand.
In the forested mountainous area of Northern Thailand, traditional tea cultivation fields – called 'miang tea gardens' – have been maintained for more than 500 years for producing fermented tea called 'miang'. In the miang tea gardens, tea trees occupy lower layers of the gardens, while the upper layers consist of large-canopy shade trees which protect tea trees from the exposure to sunlight. Tea gardens are also used for cattle grazing, partly for weeding. This production system, combined with locally preserved forest patches spreading on ridges and along streams for fuel woods gathering, is regarded as one of the typical agroforestry systems to harmonized agricultural production with forest conservation in the mountainous area of Northern Thailand. The miang villages had good reputation with their 'co-management' of forest resources by the villagers' initiative. They had strict local rules to secure various forest materials such as large amounts of fuel wood for steaming tea leaves.
This study examines the dynamics of land use and forest management at one miang village in Chiang Mai Province during the last three decades when Thailand experienced drastic changes in the industrial structure. The miang village had flexibly adapted to the new economic condition. Decrease of the demand for miang and labour shortage for miang production caused diversification of land use from miang garden to tree crops cultivation such as coffee and drinking-tea leaf and commercial field crops cultivation according to the demand of market. This diversification changed the idea of local people on resources management from village-based to household-based ones for predictable household strategies.
This case study suggests that local rules are quite vulnerable when economic activities of community members are diversified. Securing the economic sustainability of the system is a minimum requirement to maintain forested landscape associated with the traditional agroforestry system.
日 時:2008年4月21日(月) 13:30~15:50
場 所:京都大学東南アジア研究所二階会議室(E207)
発表者:
ディスカッサント:篠原真毅 (生存圏研究所 准教授)
「"創られた"森林景観 -チンパンジーが住む森のなりたち-」
発表では、科学的な視点での自然保護運動とは異なる、ローカルな視点からの森・チンパンジーと共存していくための知の存在が示され、また、この在来知を理解するために、山崎正和や中島岳志の議論をもとに、保守主義と呼ばれるものとの関わりから議論が展開された。在来知は外圧への抵抗として見いだされるようなものではなく、また抽象的かつ理念化されたものでもない。日常生活の場において歴史的な経緯のなかで存続し得た伝統や慣習のようなものとして在来知を考えていくべきではないかとの見解が示された。篠原氏によるコメントでは、在来知もまた、ユニバーサルな知へと繋がるものではないのだろうか(両者は質的に異なるのではなく、前者にかんしてより多くのデータを集めて条件を明らかにしていけば後者と一体化するのではないか)、そのため、この事例では在来知の有用性が顕著に示されてはいるが、その文脈性や事例の特異性も考えて検討していく必要があるのではないかという点が問題として提示された。この調査事例における森は、山越氏が冒頭で述べたように、チンパンジーの生態環境としてはかなり特異である。しかし同時に、こういった特異性がある森だからこそ調査が可能となり、在来知の存在を示すことができたという経緯もある。この在来知の議論をさらに発展させ、他地域での事例と比較検討あるいは具体的な政策や行為に反映していくのであれば、地域的な特異性と在来知との相関をより明らかにしていける可能性がある。また質疑応答において、在来知を閉じた社会のなかでの知としてみるのではなく、外部との関係性のなかで存在するものとして捉えていくべきではないかとの意見が発せられた。本事例においても、調査者の社会への影響を捨象することはできない。その難しさは山越氏自身も述べていたが、在来地をローカルな知ととらえるのなら、そこに外部からの影響がどのように関与しているのか(していないのか)を考察していかなければならない。そのことに関連して、近代合理的な知をはみ出た現場における知をひっくるめて在来知とよんで良いのか、今後在来知という概念を明確にしていくために、ある程度はっきりと定義していくのか必要があるのではないかという点についても議論がなされた。たとえば外来の知とはどのような関係にあるものを指すのか、在来知の対軸にあるものは何なのかといったことを、今度精緻化していく必要があるのではないか、などの意見もだされた。
(文責・加瀬澤雅人)
「都市のエネルギー需要最適化に向けた住まいの窓利用に関する研究」
発表では、これまでの京都や沖縄でおこなってきた窓利用についてのアンケート調査を地域の気候的な特性とのかかわりから分析し、さらに同様の調査を東南アジアにも広げて考察を進めていく計画が示された。そのことに関連して、コメンテーターの篠原氏は、東南アジアでの調査の前に、機密型の空間における窓の利用形態について欧米で調査をおこなってみてはどうだろうかという提案した。また参加者からは、窓の開け閉めにはたんに快適さだけではなく、地域独自のさまざまな社会形態や心情が要因として関わりあっていることが指摘された。たとえば防犯の問題で、東南アジアでは窓は開けるが、窓枠に鉄格子がつけられている。これは日本人にとっては心理的に快適なものではないだろう。また、南国での生活スタイル、例えば「シエスタ」や「オキナワ時間」などといった慣習、エアコンが普及していない社会とエアコンが日常的に存在する社会とでは暑さへの慣れや適応能力に違いもありうる。さらに、家の構造、建物の並びや都市の構造(風水など)といった、一居住地だけではなく都市や市街区全体からみていく必要があるとの意見も挙がった。これに対して発表者はアンケート調査によって個々人の生活スタイルや社会状況を十分に把握していくことは難しいと返答し、今後こういったさまざまな社会要因や広範な社会性とのかかわりをいかなる方法によって明らかにしていくことが可能になるのか、方法論も含めて議論が交わされた。
(文責・加瀬澤雅人)
日 時:2008年3月25日(火)14:00~
場 所:京都大学大学院総合研究2号館(旧工学部4号館)4階 資料室I(AA462号室)
発表者:田村うらら(京都大学大学院人間・環境学研究科)
発表テーマ:「絨毯を織り、絨毯に織りなされる生活―トルコ南西部における絨毯生産の村落間変異を中心として」
日時:2008年2月14(木)-15日(金)
場所:Ras Amba Hotel 会議室
English Page>>
/en/article.php/20080214
日 時:2008年1月28日(月) 13:30~16:00
場 所:京都大学東南アジア研究所二階会議室(E207)
発表者:
藤倉達郎「ネパール貧困層と生存のための政治(仮)」
中山節子「マラウイ湖上空間への都市イメージの投影(仮)」
日 時:2008年1月24日(木) 10:30~12:00
場 所:京都大学ASAFAS・工学部4号館4階 新第二講義室(AA469号室)
発表者:Dr. Muluneh Tamiru Oli (JSPS、岩手生物工学研究センター)
発表テーマ:Assessing diversity in traditional agriculture: the case of yam landraces (Dioscorea spp.) in Southern Ethiopia
Ethiopia is an important center of yam cultivation outside the 'yam belt' of West Africa. Nevertheless, extent of the available diversity and associated indigenous knowledge has not been investigated in detail. A farm-level survey conducted in Southern Ethiopia reveals that local farmers possess extensive knowledge about the diversity present in yam landraces, which are carefully selected and managed to meet household needs. Farmers described 37 recognized landraces throughout the study area, with one to six landraces on individual farms. Time to maturity, drought tolerance and organoleptic qualities are among factors considered in deciding number and type of landraces to grow. The local classification system is an important aspect of the diversity management. Two major categories of yams are recognized: hatuma boye ('male' yam) and macha boye ('female' yam) without reference to the reproductive biology of the plant. This classification is consistent with findings based on molecular markers. Landraces within each category are further identified based on a range of plant and environmental attributes. Yam production in the study area is constrained by several environmental and economic factors, and these need to be addressed if farmers are to continue maintaining the available germplasm. To this end, conservation and crop improvement programs must take into account the multiple objectives of farmers and the importance of diversity in local agriculture, and particularly emphasize those attributes that farmers find important in each landrace.
日 時:2007年12月14日(金) 14:00~18:00
場 所:京都大学吉田キャンパス本部構内、大学院アジア・アフリカ地域研究研究科・会議室(工学部4号館4階東側447号室)
【趣旨】
本グローバルCOEがめざす持続型生存基盤パラダイムの創生のためには、世界のさまざまな地域における知的潜在力と、先端的な科学知識を架橋して、人間が生きる環境についての新たな存在論・認識論を打ち立てる必要がある。そのために有効なアプローチのひとつは、現代世界における科学技術と社会の関係に注目し、そのネットワークが生成する社会・生態的な動態に注目することであろう。これは、自然と文化、客観と主観、モノと人、物質・エネルギーと意味・価値などの二元論を超える視座を、わたしたちに要求する。その彼方に、もしかしたら、新たなパラダイムへの道筋がみえてくるかもしれない。本シンポジウムでは、人類学、地域研究、サイエンス・スタディーズ、生存圏科学などの諸領域の最前線において活躍する研究者にお集まりいただいて、技術と社会のネットワークについて、その研究課題と展望を論じていただく。結論を出すことを目的とするのではなく、わたしたちの知的可能性を未来へと開くために、問題を発見し、課題を設定することを試みたい。
プログラム:
14:00-14:05 趣旨説明 田辺明生(京都大学人文科学研究所)
14:05-14:45 福島真人(東京大学大学院総合文科研究科)
「科学・技術と社会?―STS研究の展望と課題」
14:45-15:25 篠原真毅 (京都大学生存圏研究所)
「宇宙太陽発電所の是非-宇宙技術と地域社会との連携」
15:25-16:05 生方史数 (京都大学東南アジア研究所)
「ユーカリ論議からみえてくるもの」
16:05-16:20 休憩
16:20-17:00 足立明 (京都大学大学院アジア
「人とモノのネットワーク」
17:00-17:15 コメント 山越言 (京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科)
17:15-17:30 コメント 中岡哲郎(大阪市立大学名誉教授)
17:30-18:00 総合討論
18:15- 懇親会
日 時:2007年12月10日(月)14:00~
場 所:京都大学大学院総合研究2号館(旧工学部4号館)4階 資料室I(AA462号室)
発表者:青木啓将(名古屋大学大学院文学研究科)
発表テーマ:「日本刀の『伝統』と『美』の生成 -岐阜県関市の日本刀製作の事例から-」
発表概要: 本発表でとりあげるつくり手は、岐阜県関市において、日本国内で生産された鋼を日本刀の刀身に鍛造する「刀匠」である。日本刀は、刀匠をはじめ、刀身を研ぎ上げる「研師」、鞘や鍔等の外装装飾品を製作するつくり手たちが分業して製作する。それらの諸職のなかで、もっとも「弱い」立場にあるのが刀匠である。 また、関における日本刀製作の起源は鎌倉後期とされている。それ以後、現在までの歴史的過程において、日本刀は日本の「伝統文化」となった。今日、日本刀は法的には「美術品」として規定されている。本発表では、起源から現在に至る歴史的過程のなかで、「伝統」と「美」に彩られた日本刀の、変化してきた製作技術と諸状況を明らかにする。
日 時:2007年11月13日(火) 9:30~12:00
場 所:京都大学吉田キャンパス本部構内
大学院アジア・アフリカ地域研究研究科・会議室(工学部4号館4階東側447号室)
発表者:
重田眞義 「アフリカ在来知の生成と実践―研究の構想と展望」
松林公蔵 「アジア高齢者の主観的QOLの普遍性と多様性」
イニシアティブ4では、持続的生存基盤パラダイム形成に向けて、知的潜在力研究の立場から問題発見と課題設定をまず行うことを、現在の目標にしています。次回の研究会では、お二人に、これまでの研究経過とこれからの展望についてお話をいただき、みんなで議論をしたいと考えています。
オープンの研究会です。
重田眞義 「アフリカ在来知の生成と実践―研究の構想と展望」について
【趣旨】
「エンセーテ(Ensete)」はアフリカ、エチオピアの民族集団「アリ」にとって重要なバショウ科の食用植物である。このエンセーテには栽培集団と野生集団があり、栽培集団だけでも50種以上の品種が存在するとされる。しかし、これらは栄養繁殖によって栽培され継承されてきたものであり、原理的には同じ遺伝子を持つ同種のはずである。
現地での調査から、栽培集団のなかに意図的ではないが種子繁殖したものがあり、これらが種子繁殖する野生集団との間で交配することで種の多様性が起こっていることが明らかになった。儀礼的な理由により野生集団には人が介入しないという状況も、結果として種の多様性を維持する結果となっていた。
以上から、無意識的なレベルで種の多様性や自然保護を可能とするような在来の知が存在する、ということができる。「在来知(Local knowledge)」は、人びとが自然・社会環境と日々関わるなかで形成される実践的、経験的な知であり、本プロジェクトである持続的生存基盤を考えるにあたって重要なキーワードとなるであろう。ただしこれは文脈を無視して実体として取り出せるようなものではない。実用的側面の意義性と普遍的な知としての知のあり方、双方でのこれまでの研究を反省的にとらえつつ、その生成と実践・変化の過程を多様な文脈に即して探っていくことが必要である。
【活動の記録】
質疑応答においては、「在来」についての質問(在来知を内発的なものとして捉えるのか、あるいは研究者や外部との関与のなかで生成・存在するものも在来知とするのかという問題)があった。また、種の多様性がなぜ必要であったのかについての事実確認の質問があった。
議論はさらにGCOEプログラム全体の方向性にまで広がり、イニシアティブ1「環境・技術・制度」では環境が所与のものとして捉えられているが、本発表を含めたイニシアティブ4の視点からはそうではないことが指摘され、イニシアティブ1の枠組みや議論に対してイニシアティブ4から実践や価値、思想といった視点を提言していくということについて議論が交わされた。
松林公蔵 「アジア高齢者の主観的QOLの普遍性と多様性」について
【趣旨】
日本の養護老人ホーム、ミャンマーの仏教系、カトリック系の老人ホーム(以上、貧しく身寄りの無い高齢者のための施設)において鬱の状態を比較してみたところ、入居者の鬱の頻度は、日本が53%であるのにたいし、ミャンマーのカトリック系ホームで21%、仏教系ホームでは6%であったという。
ここからは、物理的な施設の充実と人々の主観的な幸福とが結びついていない、ということが指摘できるだろう。では、日本に比べてミャンマーのホームで欝が少ないのはなぜか。対比してみると、ミャンマーのカトリック系ホームでは祈りや賛美歌、仏教系ホームでは高僧の説話や瞑想(メディテーション)といった宗教的な営みが行われていることが注目される。それゆえ、このスピリチュアルな要因が鬱の発生率と大きく関係していると考えることができる。<サクセスフル・エイジング>においては、これまで理解されていたようなフィジカルな健康、メンタルな健康とともに、いわゆるスピリチュアルな視点を取り入れることがきわめて重要になっているのである。
これまで医療は、純粋科学的な“Evidence Based Medicine”として理解されてきた。今日ではそのようなあり方への反省から、個々人の訴えに依拠した医療のあり方“Narrative Based Medicine”が注目されるようになっている。この両視点に加えてさらに、生命や疾病と医療、そして死の意味を問いなおす“Value Based Medicine”としての医療のありかたが重要になるであろう。
【活動の記録】
質疑応答においては、Quality of Life、いかに幸福な死に方ができるのかというQuality of Deathについてさまざまな議論が交わされた。個々の主観に依拠する幸福感というものを客観的に捉えることには限界がある。何を幸福ととらえるか、いかなる死に方を望むのかについては、個人とともに地域的な違いも存在する。積極的に未来に希望を持つという幸福もあり、また、人びとの関係性のなかで安寧に死にたいという選択もあり得る。この問題を突き進めていくならば、人間が社会関係や文化的な価値のなかで状況づけられている存在であることから検討していかなければならない。しかしまた、多様であり地域的に異なるという結論に収束するのではなく、それを超えて、「かけがえのない生」を活かすような普遍的な知というものをもう一度問うていくことが必要なのではないか、という意見が発せられた。
日 時:2007年10月30日(火)14:00~
場 所:大阪芸術大学アジア・アフリカ研究所 12号館31教室
発表者1:井関和代(大阪芸術大学)
発表テーマ:「織物調査における基礎的データについて ―エチオピア・ドルゼを事例に」
発表者2:金子守恵(日本学術振興会特別研究員、京都大学ASAFAS)
発表テーマ:「エチオピア・ものづくりに関する調査について」